サイアスの千日物語 二十六日目 その八
西方の空に陽が居を移し、
やがてそのまま姿を隠そうとしていた。
日差しは赤みを帯びて力を失い、
やがて来る夜の冷たさを想像させた。
荷馬車は騎馬隊と合流を果たし、
互いの健闘を称えつつ南の往路のさらに先、
北進を示す道標へと向かおうとしていた。
往路北側の湿原は途切れ、隘路はもとの荒野に戻りつつあった。
サイアスはヴァディスや他の騎士と何やら話し込むラグナを見て、
自分の抱いていた違和感のもう一つが何であったのかを理解した。
できそこないの群れには統率者が見当たらなかった。
それが違和感の正体だった。
障害物で北の往路を封じ、南の往路へと誘引する知略。
隘路の後方から巧みに追い立て、前方の伏兵と挟撃を図る軍略。
そして後方から圧迫しつ側面からの一撃で岩壁への衝突を狙う機略。
どれをとっても烏合の衆に成しえるものではなかった。
ラグナやヴァディスのような、戦局を俯瞰し部隊を指揮する
統率者なくしては不可能な妙手だ。
「言ってみたまえ」
いつの間にかラグナがこちらを見ていた。
ヴァディスや偵察部隊も同様だ。
「できそこないには、統率者がいませんでした」
サイアスは結論のみを言った。
明らかに説明不足な物言いだった。が、
「正解だ。そして敵の策はまだ終わっていない」
そう言うと、ラグナは部隊全体に号令した。
「進路を北西へ。
北進の道標へは向かわない。城砦への最短距離を往く」
騎士たちの顔に緊張が戻った。
「ヴァディス、7騎率いて威力偵察をせよ。障害は適宜排除だ」
「御意!」
ヴァディスは偵察部隊3騎と換え馬に乗った4騎を率い、
前方へと疾駆し見えなくなった。
「他の者は治療や調整をしつつ敵襲に備えよ。城砦到着は日没間際だ」
「ハッ」
騎士たちは応じ、再び臨戦態勢を取った。
荒野の遥か西方の地平。熟れきった果実が大地へと落ちるようにして、
紅鏡は水面に映るがごとく揺らめきながら、最期の煌きを発していた。
輸送部隊はその後さしたる支障もなく、城砦へと駒を進めていた。
時折往く先に矢が突き立ててあった。道標代わりにヴァディスたちが
用意したのだろう。サイアスは荷馬車に揺られつつ、
紅く染まった荒野の風景を眺めていた。
「サイアス、無事で何よりだ。
一体斬ったとも聞いた。見事なものだ」
ラグナが馬足を落とし、馬車の側面へやってきて言った。
表情は未だ厳しいままだが、目は優しげに微笑んでいた。
「聞きたいことがあるのではないかな」
サイアスが口を開こうとしたその時。
一行の左方、はるか遠くの丘陵の辺りから、
地鳴りのような音が聞こえてきた。大きく、重く、低く。
唸るがごときその音は、怨嗟に満ちた奈落からの呼び声のようだった。
サイアスは慌てて地図を取り出し確認した。
丘陵は城砦の南方、北進への道標があると記されている場所だ。
つまり地鳴りは南往路での本来の進路上から、ということになる。
「やはりあちら側だったか」
ラグナはそう呟き、
「もはや追いつけまい。逃げ足だけはこちらが上さ」
と楽しげに笑った。
サイアスは訳が判らず呆然とラグナを見やっていた。
「あぁ済まないね。では説明させて貰おうか」
ラグナは笑い止み、目だけで微笑み語りだした。
「要は二重の挟撃だったのだ。君は、北の往路が
散乱する岩や倒木で封鎖されていたとの報告を聞いたろう?
その後、付近にはそれらを運んだ痕跡が無かったとも聞いたはずだ」
サイアスは頷いた。
「開けた場所に忽然と、何の痕跡もなく、
往路を封鎖するような大量の障害物が積んであったなら、
まず何者かの仕業を疑うところだが」
ラグナはサイアスに語りかけた。
だが同時に騎士たちにも語りかけているようだった。
「隘路に現われたできそこないたちに、
果たして成しえることだろうか?」
サイアスは目の醒める思いだった。自分の見聞きしたものだけで
思考を完結させていたことに気づいたのだ。
「できそこないの縄張りは南部の丘陵と断崖だ。距離がありすぎる。
それにそもそも、できそこないには『手』がないだろう?
周囲に引きずった痕跡もないから、くわえて引きずった
というのも無しだ。岩をくわえて引きずる様は、
ちょっと見てみたい気もするがね」
「……ともあれ、手に持ち抱えるか背中に担いで運ぶ以外では、
あの状況を作り出すのは困難だ。できそこないには手が無いし、
岩や倒木を担げるほど大きくはない。つまり、障害物の設置は
できそこないには無理、ということになる。では何者がやったのか」
ラグナは丘陵を見やりつつ言った。
「『魔』だ。巨躯を誇り膂力に優れ、
腕だけでなく翼を持つものもいる。北の往路を封鎖して南進させ、
私たちに時間と体力を消費させる。南の往路で隘路を利用し挟撃。
これを眷属であるできそこないたちにやらせる。連中は捨て駒さ。
応戦で足止めさせ、時間と戦力を削るのが目的だ。そして」
ラグナは肩をすくめた。
「虎口を脱した私たちが本来の進路上にある北進の道標へと進み、
一息ついたところで襲い掛かる。以逸待労の計というやつさ」
「それゆえ北西へ転じたのだ。あのまま西進していれば危なかった。
丘陵には日没まで身を隠せる場所が多いのでね。一方北西に向かう
現在の進路は、道は悪いが潅木や岩が散在する程度だ」
「隘路を速度を保ったまま突破できたのは大きかった。
仮に北進の道標へ向かっていたとしても、休息しなければ
逃げ切れただろう。再び追い回される羽目になりそうだが」
ラグナはそこまで話すと、隊列前方へと馬を進め出した。
「概ねこんなところだ。統率者は『魔』だったのだよ。
人より遥かに大きく、強く、賢く、そして」
一区切りいれて、さらに語った。その声には翳りがあった。
「城砦で君が戦う相手なのだ」