サイアスの千日物語 二十六日目 その四
荒野入りして二度目の休息は厳戒態勢でなされた。
20名が臨戦態勢で馬車や隊列の周囲を固め、
10名が馬や装備の確認をしつつ待機。
これを一区切りとして三度繰り返し、
部隊は早々に旅程へと戻った。
陽は天頂を通り過ぎ、微かに傾きかけていた。
往路の休憩はさっきので最後だ、と近くの騎士が
サイアスに教えた。サイアスは頷き、
地図で現在の位置を確認した。
往路の南は急峻な丘陵の岸壁や隆起した断層が
東西にずらりと連なる起伏の激しい地勢であり、
武装した騎馬や大型の馬車からなる輸送部隊には
ほぼ、絶壁のようなものだった。
往路の北に横たわる湿原の泥濘や茂みも
馬車には厳しく、事実上、南往路は
一本道であり隘路であった。
西進を始めて暫くのうちはまだ南北の地勢にも
ゆとりがあり、往来に十分な広さがある。
だがこの先、一本道な往路の最中に北の湿原が
大きくせり出して一際幅狭くなる箇所があった。
遠からず一箇所。南往路の終わりにもう一箇所。
サイアスは横目で周囲をちらちらと見つつ、
不安を消しきれないでいた。
やがて一つ目の狭所が見えてきた。
右手にせり出した湿原はいくらかの茂みと倒木や流木
または極彩色の苔や草で覆われ、近寄ろうという気を
まるで起こさせなかった。また左手は断層が高く
せり立ち、さながら天然の関所の様相を呈していた。
隘路は待ち伏せに絶好の地勢である。
北より迫るこんもりと毒々しい潅木の陰。
南に聳える断層の狭間やその上部。
随所に落ちる陰影が敵の気配を幻視錯覚させ、
進む者らの精神を蝕んだ。
輸送部隊はやや馬足を緩め、最大限の警戒と共に
慎重にこの天然の関所を通過した。隘路を縦列で
抜ける左右には未だ馬車1台分程の余裕はあったが
北の湿原側から漂ってくるぬめりとした腐臭と汚臭が
騎士らの不安と不快を否が応にも煽っていた。
一つ目の狭所を抜けてさらに後。
別働し北方の偵察に出向いていた3騎が
後方よりかなりの速度で迫り、追いついた。
3騎はいずれ劣らぬ馬術の錬達者であり、
隊列左右の間隙を縫うように前方へと滑り込み、
に、巧みに馬を操ってラグナと馬首を並べた。
「散乱現場の周辺域には
倒木や岩がそこに至るべき
いかなる痕跡も発見できませんでした」
果たして予期した通りであったか、
ラグナは軽くうなずいた。
「ご苦労だった。こちらで出した斥候も
もう戻る。本隊に合流せよ。
……隘路も半ばだ。そろそろだろう」
馬足を一定に保ったままひたすら西進する輸送部隊。
その前陣を往き思索に耽る隊長ラグナは顔を上げ、
明確に傾きを増した陽を眺めていた。
初夏にも関わらず日差しに力強さは感じられない。
陽光すら魔に怯え翳るのか、荒野の太陽は
ただ明るさをもたらすのみで熱量に乏しかった。
そして日没は、後数刻ほどに迫っていた。
程なくして、本体から別途斥候に出していた
騎士らも戻ってきた。輸送部隊総勢30名。
未だ一人も欠けてはいなかった。
西へと続く南の往路も既に半ば。
幅も馬車4、5台分程で安定していた。
先刻本体へと合流した、西へと放った斥候も
東より追随した偵察の3騎も、敵群の存在を
伝えることはなかった。
このことから少なくとも現状、往路内の
進路前後に敵影なしとラグナは見做した。
そしてこの機に少しでも距離を稼ぐべく、
進軍速度を荒野入り直後のものへ。
往路進入前の本来の速さへと戻すよう下知。
輸送部隊は遠からず見えるであろう今一つの
狭所と南往路の出口を目指し、駆けていた。
突如、後方から奇妙な声が聞こえてきた。
その声は甲高く、時に力強く。
さながら呼吸のような抑揚があった。
奇妙な声は一つ、二つと増え混じり重なって
やがて耳障りな合唱となった。
それはまるで、赤子の泣き声のようだった。
「隊長! 後方に敵影ッ!」
大型馬車にうず高く積まれた積荷の上で
弓を構え哨戒に当たっていた騎士が叫んだ。
周辺域に敵影の無い状態から忽然と湧いた
奇妙なる合唱。これは合唱の担い手らが
地勢の把握や機動性、特に峻険な起伏を
踏破し迫る能力において、輸送部隊を
上回っている可能性を示唆していた。
平原に住まう人々より遥かに強大な
荒野に棲まう異形の軍勢。その来襲が
告げられる緊迫した情況下にあってなお、
恐怖し怯え、慌てふためく者は皆無であった。
積荷を護るべく馬車に分乗していた騎士らは
ただちに装備や薬品を準備し、迎撃に備え
無言で動いた。騎馬や御者は脇目も振らず
前方を見据えて愛馬を、馬車を御していた。
皆粛々と、整然と自らの任を履行した。
ひとえに指揮官ラグナとその下知に対する
揺ぎ無き忠誠と信頼の成せる業だった。
流れゆく景色。傾きを強める太陽。
驚喜と狂気を隠すところなく
徐々に大きく鳴り響く奇妙な合唱。
そして些かの逡巡も見せず心を一つに
適宜対応し、さらなる下令を待つ
カエリア王立騎士団の精鋭たち。
目に見えるものと見えぬもの。
自らを包む全てを感じ推し量り、
隊長ラグナは暫時瞑目の後、
傍らを往く騎馬へと声をかけた。
「ヴァディス。戦況を観測せよ」
「ハッ」
ヴァディスと呼ばれた騎士は見事な手綱捌きで
隊列右側面へと飛び出し、筒のようなものを
片目に当ててまず前方を、次いで左右を確認。
そして足のみで騎馬を御し、馬足を落として
部隊最後尾に至り、迫り来る声の群れを確認した。
その後、周囲の騎士らが護衛として見守る中、
騎士ヴァディスは暫し黙考。そして部隊前方の
ラグナに向かって叫んだ。凜とした女性の声だった。
「ヴァディスより答申!
敵影18、眷属、いずれも同種。
通称『できそこない』による一個機動小隊です!
5時方向より接近中!」
前方からラグナの声が響く。
「ヴァディス。敵の戦術を推測せよ」
「後方より追走、右側面から圧迫し
左側面の岩壁に衝突させる狙いである
と推測します! 目標はおそらく先頭車両!
また、前方の狭所に敵影複数!
これは挟撃です!」
騎士たちは無言で続きを待った。
サイアスは目を細めて後方を見つめた。
徐々に近づいてくるそれらは、
今までに見たどんな生き物とも異なっていた。
馬に似た筋肉質の後肢と、
異常に発達した前肢そして鉤爪。
到底飛べそうにはない翼の残滓と、
ゴツゴツとした山羊の角。
そして何よりも目に付くのは、
醜く歪んだ様々な表情の人の顔。
この世の悪意が具現化したようなそれらは、
まさしく「できそこない」であった。
もっとも力なき人にとって、それらはまさに
逃れられぬ死の遣いでもあった。
「ヴァディス。策を示せ」
ラグナが問うた。普段通りの良く通る声だ。
「献策いたします!
敵の挟撃はこちらの現状速度に合わせたものです。
ここは直ちに最大戦速に切り替え、前方の敵の
布陣が整う前に突破し離脱すべきかと!」
「現時点でそれはできない。
城砦まではまだ距離がある。
荷馬車への負担が大きすぎる」
「ならば、騎馬のみ切り離し
先行して敵陣を崩すべきかと!」
「……よかろう」
ラグナは短く応え、
一呼吸おいて命令を下した。
「陣形変更、馬車は横列!
敵の側面攻撃を妨害しつつ、後方へ牽制せよ!
騎馬は私と共に来い!
前方の敵陣に突撃しこれを蹂躙する!」
「ハッ」
騎士たちは異口同音に応じた。
騎馬の群れはおそるべき速さで位置を入れ替え、
ラグナを中心とした楔陣形を組みあげた。
荷馬車もそれ自体が生き物のように位置を入れ替え、
前方の荷馬車は右へ、後方の荷馬車は左へ。
側面に盾を立てかけ、後方への射撃準備を整えた。
「ヴァディス、本隊の指揮を預ける。
現状速度を維持しつつ敵をしのげ! そして」
ラグナは一区切り入れ、さらに告げた。
「こちらの戻りに陣形を合わせろ」
「御意!!」
騎士ヴァディスは横並びとなった馬車3台の
前方中央へと陣取り、振り返って馬車に叫んだ。
「暫しこのヴァディスが指揮を預かる。
各位、奮闘されよ!」
「ハッ」
騎士たちは応じ、敵の襲撃に備えた。
ラグナは鍔鳴りを響かせ抜剣。
胸元に引き、天に切っ先を向け剣に祈った。
他の騎士たちは一斉に抜剣してラグナに向き直り、
サイアスもまたそれに従った。
その後ラグナは一旦陣形を離れ、
巧みに馬首を廻らせて、迫る敵勢をものともせず
速度を殺さず殺させぬまま、悠然と部隊を一周した。
ラグナは騎士一人ひとりの顔を見、目を合わせ、
最後にサイアスを見、そして叫んだ。
「騎士たちよ。
汝らが命、剣に問え。往くぞッ!!」