サイアスの千日物語 二十六日目 その三
南進する輸送部隊は一度通過した道標を再度越え、
日差しが天頂に達する頃、南往路への連絡を示す
南方の道標へと近づいていた。
部隊の前方には到底なだらかとは言い難い
丘陵と荒れた断層が立ちはだかり、
露頭した断崖とごつごつした岩壁が
それ以上の車両の南進を拒絶していた。
部隊はそこで進路を西へと変じ、
哨戒を飛ばしつつさらに駒を進めていった。
騎士たちは馬車の側面を防護すべく盾板を用意した。
また数名がうず高く詰まれた積荷の木箱に登り、
広範への視界を確保し弓を手にしていた。
進行速度を殺さぬまま適宜態勢を整えた
輸送部隊は、やがて入り江を遡上するように
南を断崖に、北を湿原に挟まれた一画へと
進入した。進み往く先は東西から徐々に狭まり
概ね馬車6台分程の幅で安定した。
周囲の景観に反し路面状態は良好であった。
乾燥した南方の断崖と湿った北方の湿原が
丁度いい塩梅で練られ、平坦で適度に柔軟だった。
いわば馬場の如き有様に騎馬も馬車も随分
楽に進むようであり、水面を進む舟の如く
それは滑らかに西進した。
もっとも南北の往路に共通ながら、
一旦進入してしまえば枝道間道は一切なく、
部隊全てが速やかに反転できるような箇所は
ほぼ皆無。要は一旦進み出したら出口まで
ひたすら突き進むしかないのである。
いわば屋根のないトンネルであった。
南往路の進入路には些かの生者の気配もなく、
見渡す彼方はただ静かに大地に臥すようだった。
輸送部隊はどこか誘うような南往路を
ひたすら奥へ。西へ西へと邁進した。
そういえば。
とサイアスはあることに思い至った。
荒野に入ってからというもの、
一度も生き物を目にしていない。
不毛の地と言えど手付かずの自然がある。
何かいてもおかしくないのではないか。
そう思い、近くの騎士にたずねてみた。
「荒野には、魔以外に生き物は居ないんですか?」
「いるとも」
騎士は即答した。
「荒野には二種の生き物がいる。
魔の餌と、魔の眷属さ」
「眷属?」
サイアスの問いに騎士は答えた。
「魔のなりかけ、みたいなものかな。
魔程強くはないが、魔に襲われないから
それなりに数がいる。そして」
騎士は断崖を仰ぎ見つつ言った。
「眷属は昼間も動く。
運が悪いと出くわすこともある」
ふぅん、と呟くサイアス。
そういえば荒野に棲まい平原を脅かすという
「魔」なる存在とその軍勢について
サイアスは漠然とした恐怖の対象としてしか、
いわば御伽話の怪物の如くにしか
認知してはいなかった。今となっては
不自然としか思えぬ程、無知だった。
ここに至ってサイアスは、
荒野の魔とその軍勢に対する情報の流布が
連合軍により規制されていたのではないか
と思い至った。
理由は不明。だが詳細を隠蔽せねばならぬ
何かが在り、それは既に間近に迫っている。
そうした気配をサイアスは感じていた。
斯様に思索に耽るサイアスは
漠然とした懸念としての「気配」をふと、
現実のものとして感じ、素知らぬ風を装いつつ
横目でちらりと流れゆく南方の景観を見た。
そしてサイアスは硬直した。
断崖の上部や狭間から、岩と岩の陰間から。
何かがこちらを窺っていたのだ。
眉をひそめて目を凝らし
再度食い入るように見つめてみたが、
もう、何も見えなかった。気のせいだろうか。
そうに違いない、とサイアスは思いたかった。
視界の隅に捉えたその姿を否定したかった。
なぜなら岩陰から僅かに覗いたその姿は、
到底容認し難いものだったからだ。
サイアスの表情が曇ったのを見て、
近くの騎士が笑って言った。
「どうしたサイアス。さすがに怖いか」
サイアスは曇った表情をさらに曇らせ
「いえ、何か……」
逡巡の後、告げた。
「人面の獣が、見えた、ような……」
騎士の笑顔が凍りついた。
周囲の騎士もぎょっとしていた。
「隊長!」
笑顔だった騎士がラグナに鋭くこれを報じた。
「聞こえている」
前方からラグナが声を返した。
普段と変わらない声だ。
「おそらく斥候だ。
こちらも出しているだろう?
まだ仕掛けてこないさ。今はまだ、な」