サイアスの千日物語 百六十六日目 その四・後
騎士団領中央北部のアウクシリウムから
東端で西方諸国との国境をも担っている
ラインなる大河までは概ね7000オッピ。
整備された大街道なら大人の足で7時間。
たっぷり休んでも半日というところだ。
血の宴で荒廃しきった平原西端の騎士団領だが
アウクシリウムへと往来する人々に百年以上
弛まず用いられてきたこの辺りでは、大街道も
往時の水準にまで復旧していた。
もっとも街道を南北に離れれば
そこには廃墟の残滓が散在する。
それらは街道を往く人々が休憩に用いる
より以上に襲う野盗狗盗に好都合なため、
連合軍は適宜更地へと変えていた。
お陰で幅十数オッピはある大街道の
南北凡そ数十オッピは開けている。
そしてその外縁に残存する廃墟に関しては
サイアスの命で先行した連合軍一個大隊が
「掃除済み」だった。
平原西域の連合諸国は大半が常備軍を
有してはおらず、1万弱もの行軍に対し
正面きって挑む者は皆無だ。
厄介なのは勢い長蛇な陣列の脇腹へ捨て身で
切り込む不逞の輩だ。平原乱世の到来を望む
闇の勢力にとり連合諸王の集結する中陣には
そうするだけの価値がある。
荒野の戦地で生命線となる輜重隊を預かり
或いは殿を務めた経験を持つサイアスだ。
こうした事でおさおさ怠りは無かった。
お陰で磐石、砂粒ほどの不安も無い。
凡そ在り得ぬ奇跡を示し、輝石の如き煌きで
統率する最も新しい神話の英雄と共に軍勢は
大街道を東へと邁進した。
一人なら半日掛からぬでも、軍単位となると
そうもいかぬ。本来ならそういう事なのだが、
この軍勢には「魔法」が掛かっていた。
神話伝承の英雄そのままな天馬騎士サイアスに
魅せられた8000は文字通り憑かれたように
疲れもみせぬ。大人の一人旅にも迫る速さで
大街道を東進していた。
もっとも心を魔法で軽やかにしても、身体の
疲れは確実に澱として淀む。それもまた知る
サイアスはけして強行はさせず適宜休ませ、
進発の都度飛翔しては「魔法」を掛けなおした。
大軍の中空で繰り返し進発の号令を発し、
後は地に降りシヴァの背でうとうと微睡む。
サイアス当人にとってはそんな行軍が
5度目の休息と進発を終えた辺り。
往く手の果てたる東の地平を、
時折煌きが縁取り出した。
――ライン川だ。
そう実感するのに数秒掛かった。
平原を縦断する大河ラインを東に望むのは
サイアスにとりこれが初めてであったからだ。
荒野の城砦へ赴くべく故郷を発ったその際
サイアスは決意が揺らぐのを嫌い、一度も
振り返る事がなかった。
――二度と戻れぬと。
二度と戻らぬと、そう思っていた。
知らず胸中に想いがこみ上げ、
思わず往く手の南方を見やった。
だが故郷を見出すには未だ遠い。
そのことにどこかほっとした風の
サイアスを周囲は優しく見守っていた。
昼食を含む長い7度目の休憩を終えた後。
宙に舞い進発の号令を発したサイアスは
遂にラインシュタットを。その西岸の
町並みを視界に得た。
何食わぬ顔で地に降り立ち、例の如く
シヴァの背で微睡まんとするサイアス。
だが沸き起こる想いは自然に零れていた。
磐石に進む軍勢の中心たるサイアスの心は
故郷が近づくほど脆くなっていくようだ。
魔にも怖じぬ神将の心は徐々に歳相応、
18の少年のものへと近付いた。
もっともサイアスの抱く感慨とは、
帰ってきた、という通り一遍とは
また少し勝手の異なるものだった。
一言で言えばそれは戸惑いだった。
故郷は脳裏の想い出とはまるで
異なる姿をしていたからだ。
西から望むのが初な事。西岸の町並みは
故郷を発った後に新設されたものである
ことを思えば新奇に、奇異に感じるのは
自然な事ではあるのだろう。
だがそれだけでもない。
そんな気がしていた。
これは、目覚めに似ている。
サイアスはそう思い至った。
荒野で数多の異形を斬って勝を取り
その代償として魔力を得たサイアスが
手に入れた奇跡には眠り病なるものもある。
日々営まれる人の生、その枠を超え何日も、
いずれは何月何年も夢に微睡み揺蕩うことを
宿命付けられたサイアスの命。
目覚めるそのたび見知ったものは
追憶の彼方に去っていく。ただ一人、
ただ独り時の果てに取り残されていく。
哀しく澄んだあの孤独感に似ているのだ。
――きっと父さんも同じ想いを抱いたろう。
荒野の死地にて魔軍と戦い、年に一度
己が所領たる故郷へと戻る。それを七年
繰り返していた武神ライナスもまた、
帰境のたびに同じ感傷を抱いた事だろう。
掛け替えのない、大切なものを護るために
掛け替えのない、大切なものと別れねばならぬ。
皮肉な運命だがこれは、荒野の死地に臨む者
なら誰しも覚悟している事だ。極稀に起きた
生還が戯れに残響を鳴らしているだけなのだ。
感慨の正体、つまり寂しさ。それに気づいた
サイアスは一胸中に去来する甘く淡い想いへ
そう嘯いて独り決別し、大河の如く永久に
続く悠久の時へ、さながら神や魔の如くに
向き合おうとした。だが
「美しい、素敵なところね」
と背後よりニティヤ。
「貴方の故郷。そしてこれからは、
私たち皆の故郷、ラインシュタット」
サイアスの心を護るように、
そっとそう告げ寄り添うニティヤ。
胸元ではベリルが気遣わしげに見上げ
励ますようにサイアスの手を掴んでいた。
――独りではない。
サイアスはそれを想い出した。
そう、ずっと、独りではなかった。
郷里では常に護られていたし
荒野へ赴く際には伯父が特訓を。
アウクシリウムではメディナが寿ぎ
道中はカエリア王と騎士たちが一緒だった。
荒野の戦地でも常に頼もしい戦士らが
常にサイアスを盛り立て共に戦ってくれた。
サイアスはずっと独りではなかったのだ。
故郷を護るそのために
凍えきった生を生きる。
そう決意したサイアスを常に
周囲が暖かく支えてくれていた。
いずれ死すべきその荒野の旅路を、
共に往く者たちがサイアスにはあった。
サイアスが永久に微睡み続ける運命でも
その最中に何度死し何度生まれ変わっても。
きっとまたサイアスの下に集い共に歩むだろう。
いかなる輝石の煌きにも勝る
掛け替えのない宝を手に入れていた。
だからきっとこの先どれほど人の身から。
人の生から離れても、サイアスはきっと、
人の心を失わずに居られるだろう。
「護りたかったんだ」
嘯き虚勢を張る必要などないのだ。
「父が遺し、伯父が護り、
母や皆が住むラインドルフを。
本当に、ただそれだけだったんだ」
サイアスの頬を雫が伝う。
ニティヤやベリル。一家やベオルク、
周囲の諸王までも、誰もがサイアスに
優しく頷いていた。
皆そうなのだ。
国や家族、誇りや宝。千差万別だが皆
護るべき掛け替えの無いものを持ち
頼るべき掛け替えの無い戦友を有していた。
だから皆、判っていた。
サイアスの想い、成し遂げた重み。
そして皆もまた、自らの成すべきを
成すのだと覚悟を新たにもしていた。
「私はとても恵まれていた」
数多の死地を経てもなおそう思える。
多くの人や出来事との出会いと繋がりが
サイアスに願いを叶えさせてくれたのだ。
いくら感謝してもしきれない。
瞑目しそう語るサイアスの
目元をベリルがそっと拭う。
「これで仕舞いのような物言いは止せ。
お前の旅路はこれからも、まだまだ
ずっと続くのだからな」
目頭を熱くした様相とは裏腹に
ベオルクが苦笑し叱責する。
それは確かにその通り。
時の彼方まで続く命の流れ然り、
一個の騎士や領主としての責務然り。
騎士団領ラインシュタットはサイアスにとり
赴任先。休暇先であり故郷でもあるのは
飽くまで「偶々」という事なのだから。
「はい。肝に銘じます」
サイアスもまた泣き笑いで苦笑した。
そこには欠片の悲観も逡巡もなかった。
哀しいほどに澄み渡る晩秋の空の下
万に迫る軍勢が布陣し南面する先に数騎。
その南手で弧を描き輪にも成らん
二千近い人々へと対していた。
南面するうちの一騎。燦然たる地上の陽光
名馬シグルドリーヴァの鞍上には、銀嶺の
輝きに満ちた勇壮にして美麗なる若き騎士。
その背には絶世の美女たる愛妻が寄り添い、
鞍前には健気で愛らしい愛娘が共に在った。
サイアスはベリルをひょいと
抱え上げると右の肩に乗せた。
華奢過ぎるサイアスだ。実に微妙な有様だが
そも左肩にはのっしとユハが鎮座。今更だ。
不意の事、さらに視界が一層開けた事に
驚くベリルにくすりと笑うと、サイアスは
それと察したシヴァと共に人馬一体振り返った。
ベリルはさらに驚きの声を上げた。
大街道の南手に凛然と布陣する9千の軍勢が
こぞってベリルに着目しその下知を待つ格好
となって見えた。
これが将の眺めなのだ。
ベリルは素直に感動し
感嘆の声を発した。
かつて大魔、冷厳公フルーレティを討って
故郷たる古都イニティウムへと凱旋した父
ライナスがサイアスに同様のことをした際、
きっとこういう反応が欲しかったに違いない。
自分は再会が嬉しいばかりでまず泣いた。
ベリルはきっと自身以上の大物になるだろう。
苦笑ししれっと親馬鹿するサイアスであった。
「三大国家及び連合の諸王陛下。
此度の道中を共にできたこと、
真に光栄至極に存じます。
朋輩たる、連合と諸国の兵士諸君。
後を任せ先に休む事を許して欲しい。
是非無事に務めを果たし帰還してくれ。
とまれ皆様方、此度はこれにて。
また遠からずお会いしましょう」
人馬一体、ふわりと宙に舞い上がって
そう告げ一礼するサイアスに対し
南方からはどよめき。北方からは剣礼。
もっとも北方の軍勢はサイアスが地に降り
その東進を見守る風情を醸しても、一向に
行軍に戻る気配はない。むしろ南に寄る風だ。
英雄が郷里に帰還する折角の名場面なのだ。
がっつり見ていこうとまぁ、そういう事だった。
これに小さく肩を竦めたサイアスは
人馬揃って常通り、つんとお澄ましで南へと。
待ち受ける故郷の人々の下へと向かった。
一家やベオルクにデレク。さらに小隊の
面々もその後をしずしずと。
そうしてサイアスはついにようやっと
懐かしい故郷の人々と対面した。
旅立ちの朝は言葉が上手く紡げなかった。
ありがとう。いつかきっと
ただそれだけ告げるのが精一杯。
俯き振り返らずに村を発った。
荒野で異形との百戦を制し、歌姫と謳われる
その美声を響かせて多くの勇者らを死地へと
誘い、そして生還させてきたサイアス。
溢れる言霊にも語るべき声音にも
何一つ不自由はない、そのはずがいざ
懐かしき想い出の人々を前にするとやはり
あの日のあの朝と同様に、どうにも言葉が
うまく紡げないでいた。
破顔一笑する伯父グラドゥス。
今にも飛びつき抱きつきそうな
従妹のアンバーとその夫マーブル。
人目も憚らず泣き嗚咽を漏らすアルミナと
その両脇に二人、勇壮なるラインの乙女たち。
そして一歩歩み出て、懸命に涙を堪え
我が子らを待つ母、絶世の美女グラティア。
大勢の見知った顔と見知らぬ顔にサイアスは
ややはにかんで。かつて父がそうしたように
ややはにかんで、一言のみ。
「ただいま」
城砦歴107年に登場した絢爛たる銀嶺の煌き。
戦死した武神、第四戦隊長にして城砦騎士長
ライナス・ラインドルフの子、サイアスは
父の所領を継承し自ら荒野の中央城砦へ。
決意一つの旅すがら、そして荒野の城砦で
無数の出会いと助力を得て百戦を制し、
神話伝承の英雄そのままな数多の輝かしい
武功を上げ、遂には父同様人の世の守護者
にして絶対強者、城砦騎士と相成った。
18歳での城砦騎士叙勲は剣聖ローディスの
14歳に次ぐ二番目の若さであり、軍才では
武神や剣聖をも遥かに凌駕。
戦の主たる武王騎士団長チェルニーに迫り
史上初、かつ唯一の城砦兵団長となり、
さらに騎士団全権命令者と成った。
その才は一騎士や一将帥の枠に留まらず、
西方諸国連合軍総兵力をも預かるに至り、
連合辺境伯として故郷でもある騎士団領
ラインシュタットへと赴任。
荒野と平原の双方を行き来し内外を睥睨し
統治する、王としての役目を負うに至った。
勇壮過ぎる武功や逸話の数々からはまるで想像
できぬ事だが、その容貌は平原一、絶世の美女
たる母グラティアの若き日そのままの姿だ。
かつ天地を動かし鬼神をも泣かす美麗な歌声と
奏曲の才をも継いでいて、人物神魔の区別なく
ありとあらゆる存在を魅了してやまない。
荒野に在りて世を統べる魔でさえ虜にした
とさえ伝わり、大空を舞い敵を討つ等その
活躍は常人の域を遠く離れている。
後世の史書に曰く。
サイアスは城砦史100年分の活躍を成し、
彼の登場した城砦歴107年を以て忌まわしき
暗黒時代は終焉。麗しき黄金時代が幕を開けた。
そう評されるのだった。
とまれこうしてサイアスは故郷たる
騎士団領ラインシュタットへと帰還。
束の間の平穏を手に入れた。
もっともそれはほんの束の間の事。
時の果てまで永久に続く彼の旅路の
瞬き一つ分な、ほんの束の間の事。
されど永久に心を照らす安らぎの日々。
遠からず、再び彼は荒野へと戻る。
かの魔との約束を果たすために。
そして悠久の時を超え、世界を超えて
語り継がれる、さらなる物語を紡ぐために。
『人智の境界』第一部「サイアスの千日物語」
はこれにて完結と相成ります。三年半の長きに
渡りご愛読くださった皆様方に心より感謝を。
今後第一部は誤字脱字や設定の齟齬等を正す
大規模な改稿と再編成に入ります。また
今月中は断章や外伝、付録等の追加投稿に
留め、第二部「シラクサの賦」は来月より
投稿開始予定です。暫しお待ちくださいませ。
本話に掲載の画像は
茶子様の2019年の著作物です。
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