サイアスの千日物語 百六十日目 その三十六
それからさらに1、2分。
サイアスが北往路の一行の下より
飛び立って5分と少しの時が経った。
出発点よりの飛翔距離は概ね2000。
航路としての進捗は6割弱といったところだ。
気力の封じられた七宝は丁度三つ目の宝玉が
暗転し、四つめへと差し掛かっていた。
この分だと魔具たる馬具飛天七宝座に蓄積
されている分のみで十分現地に到着できそうだ。
もっともその後異形との戦闘が控えていよう。
楽観できぬ状況である事に変わりは無かった。
ただ一方でサイアスは大湿原全体の地勢を
振り返り、南北方向にであれば、これを縦断
できそうだと判じた。
大湿原は平原同様横長の楕円をしており
その全長は東西に10000南北に5000。
無論単位はオッピ立てだ。
体調にも左右されるが南北方向、特に両端域
であれば突っ切っるくらいはできそうだ。
もっとも突っ切った後は突っ伏す羽目になり
安全域が確保できぬ現状机上の空論でしかない。
仮に大湿原の内部に中継拠点の一つも
設けられたなら、少なくともサイアスにとり
大湿原そのものは往く手を阻む要害たり得ぬ。
そういう事になりそうだった。
城砦歴107年半ばまでの認識では、大湿原に
生息する異形といえば羽牙たるズー、そして
同じく百頭伯爵の落とし仔と目される縦長。
この2種のみと見做されていた。
だがつい先刻、未知の大形異形の出現により
この認識は破壊され上書きされたところだ。
流石にあれだけの大物がうじゃうじゃと
犇いていると思いたくはないが
兎に角大湿原は広大だ。
そして荒野ではあらゆる事が起こり得る。
せめてこの状況でうっかり魔に出くわす事
だけは避けたいものだと嘆息しつつ。
サイアスは歌を止め螺旋の鉄槍アーグレを
右手に掻い込み突撃態勢を整えた。
「そう荒ぶるな。
今日は味方だ」
眼下には広大な影絵の海原の如き大湿原。
天上には明るき銀砂の海原の如き夜空。
そして両者の狭間な虚空を往くサイアスの
視線の先には、雄雄しき6枚の翼を有する
巨大な獅子の頭が在った。
翼持つ獅子の頭部は打ち付ける翼の起こす風で
鬣を揺らしつつ、その下方で一対の腕を組み、
南方の眼下で繰り広げられている阿鼻叫喚の
地獄絵図を眺めていた。
奸智公爵の使徒たるを
自認する上位眷属アン・ズー。
かつて四枚羽と呼ばれ、さらには
はねっかえりと名付けられた、サイアスに
とっては兎に角何かと因縁のある相手であった。
「不戦協定のおまけか?
随分気前の良い事だ」
無言で突撃する気満々だったサイアスは
アン・ズーが野良または奸魔軍として
動いているのだと理解した。
アイーダ作戦の夜、サイアスとアン・ズー
さらにはその背後に居る大魔、奸智公
ウェパルとの間で結ばれた不戦協定とは
飽くまで限定的なものだ。
騎士団から、いや人から見たズーは
所属上総じて3種に大別される。
いかなる魔の命をも受けていない、
いわゆる素の状態である野良のズー。
奸智公ウェパルの意のままに挙動し
暗躍するいわゆる奸魔軍としてのズー。
これら2種の他に、奸智公以外の他魔が
走狗として用いる場合における魔軍としての
ズーというのが在るのだ。
特にズーの産みの親は百頭伯爵だと目されて
おり、そちらの命に従ったり、他の魔の命に
従って動く場合は不戦協定が意味を成さぬのだ。
目の前に異形が居ればとりあえず斬る。
後の事は生き残ってから考える。
そういういかにも城砦騎士団員、いやむしろ
第四戦隊員らしい思考に染まりきっている
自身に内心苦笑するサイアスは、味方である
とのアン・ズーの主張に納得して掻い込み
構えたアーグレを下ろし、ついでに
「北往路のデカブツは
『百頭伯』の差し金か」
と問うた。
大湿原を今の腐敗と汚辱の巣窟に変えたのは
黒の月、宴の折に顕現し暴虐の限りを縦にして
やがて昇華する百頭伯爵の捨てた依り代。
すなわち人と異形と魔すらを問わぬ無数の
怨嗟と苦悶と憎悪に満ちてねばねばと糸引く
腐れた頭部と呪詛を凝縮したその爛れ汁だ。
百頭伯爵はかつては草原ないしは森林であった
大湿原を斯様な腐れの海原に変じ、さらには
世界樹を擁する小湿原をも汚濁の底に沈めんと
自身の落とし仔であるズーで以て侵略していた。
だがこの恐るべき陰謀は他ならぬサイアスの
まさに神をも畏れぬ獅子奮迅、猫奮迅の活躍
により阻まれて、世界樹は再び息を吹き返し
小湿原は急速な浄化の一途を辿っていた。
要するに。
サイアスは個人的に、間違いなく、
百頭伯爵の恨みを買っているのだった。
ゆえに大湿原の傍らを通るサイアスと
その一行に大形異形をけしかけた。
無論勝てると楽観視はしておらず、
飽くまで足止め程度と見做し、本命は
一行の迎えに出張っている近衛隊100名だ。
狩れるか判らぬ20かそこらの魂よりも
確実に奪える100の魂を狙う。その方が
腹の足しになるし何より味方を護る事に誇り
を有する城砦騎士団やサイアスが嫌がるからだ。
だから百頭伯は近衛隊を襲わせるべく、
その長大な巨躯と鎌首をもたげるがゆえに
影絵の世界から時折飛び出して見える、縦長
の群れを向かわせたのだろう。
サイアスは然様な論拠でそう問うたのだった。
「そうかも知れぬし、違うやも知れぬ。
余は余が選んだ神にしか仕えぬ。
他の神の声は最早、届かぬのだ」
戦局を見据えるアン・ズーは
至極どうでも良さげにそう応じた。
大魔・百頭の落とし仔であるはずのこの
上位眷属は言わば父神たる存在を見捨て、
自らの意思で信奉する女神に仕えていた。
恐らくは眼下の者らもそういう事なのだろう。
アン・ズーの獅子の目が見やるその先、南方の
眼下では、大蛇の如くのたうち暴れる縦長へと
果敢に斬り込みこれを撹乱するズーの群れ。
「余の神は汝の旅路を祝福している。
これを穢す者は何であれ許さぬ。
あの者どもは余らに任せよ。
汝は汝の旅路へと戻るがよい」
アン・ズーは厳粛な声でそう告げた。
1オッピ≒4メートル




