サイアスの千日物語 百六十日目 その三十四
悪臭と一口に言っても色々ある。
多くの発酵食品がそうであるように
趣味嗜好の範疇で済む臭いだけのものから
致死級の刺激臭で生命を脅かすものまである。
前者は時と場合と対象により誘惑となるが
後者は危機的状況を知らせる警告に他ならぬ。
そして大湿原の放つ悪臭とは俄然後者であった。
仮に大袋にたんまりと詰め込んで一気に
浴びせでもしたならば、草は枯れ花は萎れ
鼻はひん曲がって元に戻らぬ、と言われる。
小湿原の薬草類もあれはあれで強烈な芳香を
有しているのだが、それは言わば正の臭い。
対して大湿原は負の臭い。いっそ腐の臭いだ。
あらゆる点で人より高い能力を持つとされる
異形らは当然人より鼻が利き、それゆえに
大湿原の悪臭から蒙る被害も甚大だろう。
ゆえに大多数の異形は大湿原を忌避している。
そういう事かも知れなかった。
幸いにして件の大形異形は大湿原産であった
としても、大湿原そのものという訳ではない。
巨体のどこかに泥炭等大湿原産の悪臭の元が
へばりついてでもいたか、或いは棲息域の
臭いが馴染みでもしたか、その辺だ。
お陰で向かい風に込められた生温き悪臭は
100オッピ先までを有効射程とするも
致死級ではなく、顔を顰め呻き行動不能に
陥らせた上、うっかり魔力を1程上昇させる
やもしれぬという程度に留まったようだ。
ベオルクの命を受けた鉄騎衆だった5名が
車両を動かし南と東を覆った事により、蟹、
らしきものの放つ大湿原の残り香は河川へと。
往路から見て低地に当たる北方河川へと
流れ落ち、東手への猛威は食い止められた。
またベオルクは5名に件の脚と鋏の甲殻に
油を撒いて火を掛けて、表面の汚泥を
焼き落とすよう命じた。
随分正気に戻り随分遠巻きとなっていた
5名が風上から慎重に近寄って火付けすべく
まずは表面の状況を灯りで照らし検めたところ、
随所に汚泥や蘚苔の類が表皮の如くにこびり
付いていた。
もしやと慌て恐れた5名。
彼らは先刻までこの鋏や脚によじ登って
やっほうぇーいとはっちゃけていたのだ。
もしや己が身に纏う被服にも汚泥なりが
こびり付いているのでは、と大いに
飛び退き気もそぞろになった。
そうして未だ自身らが上半身裸であったと
今頃気付き、これ見よがしにくしゃみして
べっとり塗りたくった薬品を半端なマント
でフキフキし上着を着込んだ。
その後恐る恐る自身のブーツを脱ぎ放ち、
そろりそろりと鼻に近付けてウッっと顔を
背けるも、嗅いだのが足を突っ込む側だった
と気付いて照れりし気を取り直して裏底を
クンクンしてグェっと呻き悶えた。
この頃には既に東からの一行も先手と山車の
半ばほどまでが、現地へと到着を果たしていた。
彼らは積荷を降ろし腕をまわし一息付きつつ
先刻の大量破壊兵器げな悪臭の原因は何ぞや
と車両の陰から興味津々で覗きこんでいた。
無論西手では命じたベオルク以下一行が
東よりの一隊ともども5名の様子を伺っていた。
つまりはその場に集う大多数の視線が集まる
その中心で、真・最低の屑な5名らはその名に
恥じぬシェドも羨む天然100%な滑稽振り
を披露していたのだった。
短くも苛烈な大形異形との死闘。
何故だか天より降って来た書状の下
荒野の夜の北往路にて基地を山車にと
練り歩く異常というか超常のオンパレード。
それらによる緊張と疲労、焦燥、不安等様々に
蓄積した諸々が5名の滑稽振りで一気に噴出し、
その場に集う100名弱はこぞって大笑いした。
大形異形との派手な大喧嘩、篝火に鍋。
山車の練り歩き、そして剽げ雀踊りする道化。
次々に起こるそうした出来事はさながらどこか
季節外れで的外れな「祭り」のようだった。
異形の闊歩し跋扈する荒野の只中、それも夜。
けして暢気に構えておれる状況ではないものの、
それでも状況はあらゆる点でお祭り騒ぎであり、
四戦隊もフェルモリア兵もお祭り好きだ。
そのため一同はなんだかすっかりお祭り気分と
なってしばし盛大に笑い騒ぎまくっていた。
と、その様に。
気がそぞろにでもなったのか。
山車たる基地の扉が開き
ひょっこりサイアスが起きて来た。
愉快気に響く笑い声と祭りの気配に誘われ、
表れ出でた地上の陽光、名馬シグルドリーヴァ。
そして愛馬たる名馬シヴァの背に乗ったまま、
人馬揃ってすやすやとご就寝であったらしき
サイアス・ラインシュタット連合辺境伯。
その様その挙措その状況はさながら
東方諸国の神話縁起絵巻の一節に似て
不可思議かつどこか荘厳さに満ちていた。
局地的に昼が訪れたが如き華やぎを伴って
表れたサイアスは山車たる基地の二階部分より
シヴァと共に西手を見やり、
「シェドが5人も居る……」
とぼそり。
これを聞く一同は失笑し、
5名は自棄気味に苦笑していた。
その後サイアスとシヴァは揃って
軽く伸びをして、ぽーんと宙へ躍り出た。
黄金と白銀に色づいた何とも神々しい人馬が
神仙もかくやと宙を蹴り夜空を駆け渡るその様
を初めて目にした近衛隊70名は大いに仰天し
どよめいて、或いはそのまま引っくり返った。
そうした様を欠片も意に介さずしれっと飛翔。
蟹、らしきものの残滓と5名をちらりと眼下に
一瞥しつつ音も無く一行の下へと戻ってきた
サイアスに、ベオルクらは苦笑した。
「ただいま戻りました」
まるで悪びれるところなく、しれっと
そう告げて馬上から一礼するサイアス。
「うむ、ご苦労」
何を言うのも馬鹿馬鹿しくなって
笑ってこれを労うベオルク。
一家の面々も同様だった。
「どーやってこれ届けたんだ?」
いつの間にやら一行の下へと戻ってきた
デレクがサイアスに件の書状を示し、
次いでベオルクへと手渡した。
東手では一通り馬鹿笑いを終えた近衛隊らが
第二基地の跡地へと、運搬してきた基地を
設置すべく準備を開始していた。
「お話します。が、
その前にお腹が空きました」
となお悪びれずしれっとサイアス。
そりゃそうだと笑って納得し、一行は
サイアスの分のだごん汁や茶などを用意。
一心地つき、ほっと一息して
「眠くなりました」
とのたまうサイアス。
速攻ロイエに締め上げられ反省した。
「実は当地を発った後……」
そうして語られたのは、これまで城砦騎士団が
荒野で経た100年余分の戦歴を振り返っても
まるで類例の無い、実に奇妙な出来事であった。




