サイアスの千日物語 百六十日目 その二十六
蟹鍋が食べたい。
謹厳実直を絵に描いたようなクリームヒルト。
アイスクリンとも呼ばれる冷静沈着な彼女の
その口から飛び出したその一言に、ベオルク
とデレクは身じろぎ一つできずに居た。
寒風が往路を吹き抜けていく。
平原ならば今は中秋。
太陽に熱量の乏しい荒野では
既に平原の初冬過ぎな気候だった。
風は冷たい。夜ともなれば尚の事。
確かにこんな寒風の染みる夜は
蟹鍋が食べたい。それは判る。
未知の大形異形との刹那の死闘を見事制して
勝ち取った命の価値を高らかに謳歌すべく
蟹鍋が食べたい。それは判るのだ。
だがしかし。
嗚呼、だがしかし。
「蟹か……」
そう、そこが問題だった。
確かに似通った部分は多かった。
だが明らかにアレな部分もまた多く、
流石に蟹だと断ずるのは聊か大らかに
過ぎるのではなかろうか。
そうした懸念を言外に匂わせる
魔剣の主、魔性の髯ベオルク。
だが
「少なくともアレは蟹です」
と再度ベオルクの背後を指すクリン。
確かにあの脚と鋏は蟹だ。
蟹としか言い様の無い姿だった。
あの脚部と鋏の内側には、きっと外観から
察せられる通りの身が詰まっているのだろう。
折りしも荒野は冬の装い。
大いに脂の乗った旨い時期だ。
そういえば子持ちでもあった。
きっと身はプリプリでムチムチかつ
とってもジューシィに相違あるまい。
「ふむ、成程な……」
敵地の只中、異形だらけの陸の孤島で
特務専門の精鋭を率いるだけあって
ベオルクの発想は実に柔軟だ。
確かに残っている部分だけを見れば
見た目はまるで蟹。構造もまるで蟹だ。
なら味もまるで蟹であろう。証明完了だ。
別に味噌だ何だを喰おうと言うのでは無い。
脚と鋏だけなのだ。そこまで憚る由も無し。
「悪くない」
と大いに頷き賛同した。
何と現場最上官がオッケェしてしまった。
このままでは限りなく病み鍋いや闇鍋風な
蟹鍋パーリィになってしまう。どげんかせんと。
緊急かつ逼迫した状況を如何でか覆すべく、
「だがちょっと待てクリンクリン」
とデレク。
「誰がちんちくりんですか
『真・最低の屑』長殿」
アイスクリンの異名通りな
絶対零度のジト目で返すクリン。
背後では肉娘衆がそうだそうだと騒いだ。
「やめーや! てかお前、
セメレーみたいな物言いを」
自身の失言が発端なので強弁できず
泣き言気味に食い下がるデレク。一方
「反論は論理的にお願いします」
と小憎らしくドヤるクリン。
この辺りはサイアス一家の
総員に共通する特徴と言えた。
大形異形を鍋にしようというどの辺が論理的
なのかはさておき、デレクとしては何とかして
この肉に見境の無い娘っこどもと飲兵衛上司に
混沌極まる鍋料理を断念させねばならなかった。
「お前たちはさっき一瞬しか近寄って
ないから多分判ってないんだろうが、
アレはもの凄まじく臭いぞ。
腐くてすっぱくて目にクる
大湿原そのままの毒々しい臭いだ。
熱すれば益々酷い事になるだろう。
この辺一帯地獄絵図と化すぞ。
やめといた方がいい」
とデレク。
大湿原は見るからに強烈な毒々しさと鼻が
ひん曲がる程度ではきかぬ熾烈な悪臭で
人も異形も入れぬ不浄の地として知られていた。
実際には羽牙たるズーや縦長等大湿原に
棲息する異形もおり、そも先の大形異形は
大湿原から出張ってきたと推察されていた。
だがそうした例は極稀で、異形の軍勢全体と
しては同地を通過できず、だからこそかの
「退魔の楔」作戦が成立してもいた。
「では何故彼らは平気なのですか」
とクリンは今なお脚や鋏に取り付いて
或いはよじ登り勝利の余韻に酔いしれる
5名を指差した。
「壊れてるから。
もしくは同じ臭いだから」
とデレク。
5名の名誉がどん底まで毀損されるも
これには凄まじい説得力が伴っており
流石の肉娘らも顔をしかめた。
「悪臭はきっと外殻だけです。
先に中の身だけ取り出し、適宜
下ごしらえすれば問題ないでしょう。
羽牙もそうしているではありませんか」
だがクリンは退かず。
その弁証は実証主義的な
整合性に満ちていた。が、
「待てクリン。
我ら城砦騎士団は羽牙を
鳥肉の代用に食していない。
よく食卓に上るのは飽くまで
『鳥らしきものの肉』なのだ。
そこは誤解してはならんぞ」
とベオルク。
城砦騎士団の幹部としては真否にかかわらず
外聞を憚る発言は厳に戒めたいところだった。
「失礼致しました。では
『蟹らしきものの肉』で鍋をする。
つまりそういう事で宜しいですね?」
「うむ。誠に妙案である」
デレクの必死の抵抗も虚しく
結局そういう事になった。




