サイアスの千日物語 百六十日目 その十
午後5時半。
西の彼方に金烏は去り
空と大地の狭間が消えた。
星々が満ちた夜空は明るいが
未だ空は凪いで地を照らさない。
歴とした夜より深く重く暗い闇の滲む
そんな一時を指して「逢魔が刻」と呼ぶ。
つまりは午後5時半。
荒野に逢魔が刻が訪れた。
天地の狭間が影色に染まった
そんな世界の只中を、さながら横殴りの
宵の明星の如くに音も無く奔る輝きが在った。
疾駆する騎馬の馬装からは陽光色をした
毛並みの輝きが零れ、駆る騎士の纏う紺と
黄金、そして白銀の軍装を華やがせていた。
鞍の左右後方で棚引く両の軍旗は翼のよう。
夜陰を駆ける人馬のその様は、神話伝承の
天馬騎士そのものであった。
北往路東端から数えて二つ目の基地が
その実異形の擬態であると判明し、対峙し
思索して明じられそして飛び立ったサイアス。
その目的地は対峙する未知の大形異形の
上空や背後たる真東ではなかった。
シヴァとサイアスが疾駆し向かうのは南東。
大湿原を袈裟斬る如くに大いに過ぎって
一直線たる南東の先であった。
中央城砦の外郭北門より虹に誘われ
平原への帰途につき、まずは支城ビフレスト
へと入城して長めの休息を取った、その折に。
また北往路を東進し出して一息に長躯し
やはり長めの休息を取った、その折に。
支城の主シベリウスや城代ロミュオーを
始めとする幹部衆、そして一行に含まれる
ベオルク以下城砦騎士とその副官らは、
この先の道中にて起こり得る敵襲について
十全の分析を行っていた。
そこで議題の中心となったのは、襲撃が
起こったとしてその主体が何者かという事だ。
黒の月、宴の折でも無い限りは
荒野に在りて世を統べる荒ぶる神たる魔
そのものが降臨し暴威を振るう事はまずない。
よって実務として襲撃を担う者が魔の眷属たる
異形であろう事に疑念の余地などなかったが、
その実行犯たる異形らを襲撃へと衝き動かす
ものとは果たして何か、そういう事を取り沙汰
していたのだった。
常識の範疇で考えるなら、まずは各個の異形
による捕食を目的とした単独犯な襲撃だ。
実際平時の荒野において最も多いのがこれで
あり、規模が同一種内の群れや部隊単位となる
事はあっても、種族の垣根を越えた連携や共闘
は見られなかった。
何故なら荒野に自然に巣食う存在である異形ら
とは、本来互いに相食む事で独自の生態系を
荒野に築いている存在であるからだ。
よって最も弱くもっとも易い獲物である人を
取り合い争う事はあっても、互いに役目を決め
増してや損しかない囮を献身的に担って軍勢と
して人を襲うなぞはけして在りえぬのだった。
そして起こり得る襲撃がこうした独立別個の
種の異形による一過性の襲撃であるならば。
どの異形よりも戦力で優越するがゆえに
絶対強者と呼ばれる城砦騎士が3名も居る以上
その迎撃に一切の不安はなかった。
仮に上位種と呼ばれる戦力指数が数十に至る
大物が何かの拍子に出張ってきたとしても、
城砦騎士長たるベオルクが単騎で30超。
デレクやサイアスも名馬の力を借りれば
それぞれ20前後の戦力指数を有する上、
サイアスは自身に数倍する戦力指数を持つ
大物を狩る事においては現役のどの城砦騎士
よりも経験豊かで秀でていた。
要は相手が魔そのものでもない限りにおいて
単独犯、すなわち「野良」による襲撃であれば
確実に返り討ちにできる。そういう状況に
あったわけだ。
よって支城幹部や一行の懸念は野良以外での
可能性に。すなわち魔軍による襲撃へと
絞られていた。
そこで問題となるのが今という時期だ。
従来魔が荒野で展開される諸々の事象に。
特に人と異形、人魔の大戦に掛かる事象に
積極的に絡んでくるのは、黒の月とその前後に
偏っているものだった。
これは過去100年余の戦歴で騎士団が解析
した魔のメカニズム。すなわち平素は高次の
概念として存在し闇夜の宴にて現世へと降臨。
その後再び概念へと昇華し現世においては
いわば休眠期に入る。そうしたメカニズムに
基づく帰納であった。
ただし城砦歴107年。このメカニズムより
逸脱した魔が現れた。それが奸智公爵と
呼ばれるかの大魔「ウェパル」だ。
ウェパルはこれまでの魔が繰り返し成してきた
黒の月、宴の折にて現世へと降臨し、暴虐の
限りを尽くして再び概念として眠る、そういう
仕方を好まなかった。
ウェパルは態々現世へと降臨し
有限の存在として討たれる機会を人に与えたり
はしないのだ。
あくまで高次の概念存在のまま人魔の大戦に
関与して諸々の事象を引き起こす。それが
彼女のシステムであった。
その特異性からこれまで「魔軍」と一括りに
扱っていたものを別途「奸魔軍」として扱う
事にもなっていた。
ただ、この奸智公ウェパルはこれまで
人に知られてきた如何なる魔とも異なって
人というものに深い興味を示していた。
中でもサイアスに対してはわざわざ分霊と
でも呼ぶべき化身を以て逢いに現れたり
サイアスの戦歴を模した戦況を演出して
その戦い振りを眺め悦に入ったりと、凡そ
非常識に入れ込んでいた。
さらに申さば余りに人に入れ込み過ぎる
ゆえにか、人によって鎮められ祀られる
事をすら享受し出していた。
実に恐るべき事に、そして飽くまで
サイアス限定な話だが、語りかければ
応えるところまでこの魔は「懐いて」いた。
そのため魔軍のうち最も明快かつ活発に
時期を問わず動く「奸魔軍」については
サイアス一行を襲う事はないだろうとの
目算が付いていた。
もっとも涙ながらに見送りはしたが
やっぱり気が変わった、などはよくある事。
荒野の女神ともなればその気変わりの規模も
秋の空どころか天変地異級であろうから
油断自体はせずにいた。
ただ実行犯が奸魔軍である可能性はけして
高くはなかろうというのが幹部らが共通して
抱く見解ではあった。
では起こり得る襲撃の主体としては野良のみで
ほぼ確定であり、迎撃は容易。少なくとも
騎士級がゴロゴロしている一行が安全の確保
された北往路を往く分には何の問題もなかろう、
とそう楽観視していたかというと。
そんな事はなかった。
そう、彼らはまったく
楽観視はしていなかった。
第二第三の奸魔軍とでも呼ぶべき軍勢が
存在する、或いは誕生する、そうした
可能性を否定してはいなかったのだった。
金烏=太陽を指す雅語




