サイアスの千日物語 百五十三日目 その十四
過去の苦難を洗い流して優しく包み込む
ような、優美な旋律がくるくると踊った。
――まさに私のための曲だ。そうか、
これが彼らの贈り物だったか。
ブークはサイアスや楽隊がブークにバレぬ
ようにこっそり練習していた曲の正体に
合点がいき、納得し、感謝していた。
態々見て見ぬ振りをした甲斐があった、
などと嘯いて照れをごまかしつつも、彼らの
奏でる風雅なこの曲を、心より堪能してはいた。
――だが。
過去は飽くまで過去だ、とブークは思った。
安寧の平原に暮らす身であれば、時に振り返り
思いを寄せて、懐かしむのは構わないだろう。
だがここは人の世を遠く離れた荒野なのだ。
そして我々はこの地に棲まう人ならざる者ども
から、遠く尊き人の世を護るために。人の世の
温もりと決別し戦いの只中に身を置いている。
そう、我らは一人残らず武に生きている。
そうした我らにはこの曲は最早甘やかに過ぎ
酔いしれ尽くす事ができぬものなのだ。
――これは古い曲だ。
平原の日々に聴き耽った曲。そして虎口の
荒野へ至るにあたって平原に置いて来た。
そういう曲なのだ。
贈り物としては最上の品だ、それは間違いない。
だが今の私には最早酔いきる事はできぬ。そう、
――私は昔の私ではない。そして
今の私にはもっと相応しい曲があるのかも
しれない。もっと雄雄しく力強く、魂を
揺さぶる荒ぶる歓喜そのものの旋律が。
多分に内省的になっていたのは、勿論この曲が
それだけブークの中の平原を。人の温もりと
その甘美を多分に備えた、まさにブークの
心情に寄り添った贈り物だったからだろう。
そう、まさに弱いところを衝かれた格好だ。
この上もなく嬉しくもあり、どこか悔しくも
ある。そうした照れた苦笑を仄かに滲ませ、
ブークは演奏が終わりゆくのを感じた。
ひととき、良い夢を見せて貰った。
ブークは最後の一音を紡ごうとする楽隊を、
そして壇上のサイアスや背後の騎士らを見やり
目を細め、心より謝意を伝えるべく待ち構えた。
だが。
とても唐突に。
予測は吹き飛んだ。
予定調和の最後の一音を紡ぐべく、
手にしたヴァイオリンへと弓を滑らせる。
そうしたはずのサイアスは不意に
その弓を高々と天へと掲げると
北東へ向き直り振り下ろし突きつけた。
その先からは大地そのものの如き
重く厚く、深い男声が響いた。
『違う、違うのだ戦友よ。
このような調べではない!』
ヴィオローネもかくやと声を張るのは
第一戦隊長オッピドゥスだ。そして
『我らが真に伝えたいのは
もっと雄雄しくもっと凛々しく
いっそ荒ぶる歓喜の歌声なのだ!』
と隣のベオルクが引き継いだ。
ガツンと殴りつけられる想いを抱くブークの
周囲からは楽隊が高揚を奏で、気を取られて
慌てて振り返った隙に観客席の2000余は
起立して、サイアスの声に合わせ
『歓喜を!』
そう、
『歓喜の歌声を!!』
とそう唱和。そして大合唱が始まった。
一昨日より、ブークと楽隊は劇場に篭って
只管演奏会の準備に余念が無かった。
そこでサイアスはこれを逆手にとった。
楽隊と楽器が使えぬならば、それ以外の
全てを使ってやろう、と。
そう、サイアスが用意していたのは、
先の演奏だけでは無かったのだ。そして
先の演奏を囮とした言わば隠し玉が
これだったのだ。
サイアスはアトリアに依頼し劇場内の面々を
除く中央城砦内の全ての騎士や指揮官級へと
騎士団全権命令者の権限を以て下命した。
まずは楽器の達者が残っていれば供出せよ。
そして別途、式典の最後に合唱をおこない
皆が自身の声を以てブークを祝うべし、と。
下命を受けた将官らは手を打って喜び
配下らに通達。兵らも嬉々としてこれに
参画し、こうして半日ほど、彼らは一つの
旋律を覚え、劇場以外のあらゆる場所で、
鼻歌交じりに響かせて練習した。
その成果がまさに、これであったのだ。
まずは壇上のサイアスが天上のアルトで
主旋律を歌い、呼応した2000余が
後を追って同じ旋律を奏でた。
この場に集う2000余の、その全てが
歌唱の才に恵まれているわけではない。
よって響き渡る音声は先の演奏に比す
べくもなく、多分に荒いものだった。
だが、だからこそそこには彼らの心情が
2000余の飾らぬ思いが満ちていた。
彼らはその魂の中枢から歓喜し歌っていた。
そこには巧緻も怜悧もへったくれもない。
まさに剥き出しの感情そのものだった。
だがこれこそ人が人のために響かせる
至純の歓喜の声なのだろう。
――あぁ、そうだ。彼らは今、
心から私を祝ってくれているのだ。
圧倒的な歓喜の波に揉まれ溺れつつ
――すっかりしてやられてしまった。だが、
いつまでも聴かされてばかりいられるか!
自らのヴァイオリンを構え、
――私もあの歓喜の輪に入るのだ!!
ブークは歓喜の歌に加わった。
こうして式典会場に集う2000を超す
人の群れは一個の巨大な楽器となって
その歌声を荒野の夜空へと高らかに歌った。
篝火の焦がす果てなる天上の星々の海は
地上より沸き起こる歌声に聴き耽る風だ。
そうしてやがて熱狂のうちに
戦勝式典は終了したのだった。
此度の合唱は皆様ご存知、あの楽聖
L・V・ベートーヴェンのあの曲を。
「交響曲第9番第4楽章『歓喜の歌』」
の主旋律をそのモチーフとしております。




