サイアスの千日物語 百五十二日目 その二
横向きの長方形に脚の生えた、見ように
よっては猫が伸びをする様に見えなくも無い
チェンバロ用の椅子の上に腰掛け、その膝に
愛娘のベリルを腰掛けさせて。
「今からお父さんの弾く旋律を、
完全に真似て弾いてご覧」
とサイアスは小さく微笑んだ。
「う、うん……」
間近で見るその微笑は神々しく、
ベリルは頬を赤らめつつも悔しがった。
――嫌でも判っちゃうよ。
血が繋がっていない事が。
サイアスやニティヤの神々しいまでの美貌を
ベリルは生まれ持っていない。両親の美貌は
ベリルの誇りである一方で、ベリルと両親を
隔てる冷たい壁でもあった。
サイアスやニティヤらはベリルの事を
実の娘として心より愛してくれている。
それはベリルにも痛いほど伝わっているし、
ベリルも胸が張り裂けそうな程彼らが愛しい。
だが、だからこそ。
次元の違うその美貌はふとした折に
無防備となったベリルの心に染みるのだった。
ぷにっ
サイアスはベリルの頬をつついた。
「!?」
驚愕し、内省より戻るベリル。
「おっと間違えた」
つんと澄まして何事もなかったかのように
指を鍵盤へ向かわせ、ほんのりこっそり
笑むサイアス。
「もぅ! お父さんの意地悪!」
とむくれて軽く身体をぶつけるベリル。
全部見透かされているのだ。その上で
気を遣ってくれているのだ。9歳ながら
そうした機微がはっきり理解できるほど、
ベリルは聡かった。
「ほら早く!」
とベリルは急かした。
でないと涙を堪えきれなくなる。
「はいはい」
サイアスは楽しげに、
優しげに応えて旋律を奏でた。
星の瞬きを転がすような
可憐なチェンバロの音色が響く。
2拍に8つの響きが起こり、音の階段を
緩やかに下りきるかにみえて
最後の2音は上向いた。
サイアスは口元に左の人差し指を近付け
もう1組あるのだと示唆しつつ、再び
緩やかな音の下りを続け、終わりは
矢張り少し揺らいだ。
合計4拍、16音。
テンポは緩やか、難しくはない。
ベリルの器用は9歳にして15。
人全体の上位3割に入る程だ。
知力も年齢に比して抜群に高く、
精神は並の大人より遥かに上だった。
特に心的能力に関しては、ベリルは完全に
サイアスやニティヤらに似ていて、着実に
後を追う風だった。
サイアスの旋律を軽々と真似てみせ、
ベリルはふふんと得意気になった。
「はい、よくできました」
と笑むサイアス。
「じゃあもう一度、最初から。
音を重ねるけど惑わないようにね」
「判った」
――そうだよ、惑ってなんかいられないんだ。
認めさせてやるんだ。お父さんたちの子
なんだって。誰よりも、自分の心に。
単なる返事以上にしかと頷くベリル。
その深緑の瞳にサイアスは目を細めた。
ベリルは先刻の旋律を寸分たがわず繰り返す。
最初の2拍はベリルの調べのみが響いていた。
そして次からはサイアスの音が追った。
サイアスが奏でたのは、音の高さこそ異なる
ものの、ベリルの奏でる旋律と全く同じものだ。
全く同じ旋律を高さを変え2拍ずらし奏でていた。
ただ、それだけだ。それだけなのに。
ベリルとサイアスの奏でる旋律は
完全に調和して一つの豊かな曲調を成していた。
目をぱちくりとさせ驚喜に満ちた表情のベリル。
懊悩も煩悶も一体となった旋律が漱いでいた。
「ポリフォニーというんだ。
気に入ったかい?」
「うん! 素敵な音だね」
ベリルは瞳を輝かせた。
「少し長くしてみようか。
次からは順番も交代ね」
「うん、判った!」
何時の間にか公邸広間には一家が揃っていた。
そして蕩けるような眼差しで二人を見守って
柔らかく優しい音の広がりに心身を預けていた。
第三時間区分中盤、午後3時頃。
中央塔三階の会議室には各戦隊の主副の長と
騎士団長、参謀部より軍師数名が集っていた。
「戻ってくるなり劇場に篭りきりとは
お前も随分お困り様だな、ブークよ」
騎士団長チェルニーは楽しげに揶揄した。
「ははは……
いや、明日の準備に夢中でしてね。
その分きっとご満足頂ける内容になるかと」
騎士団きってのお困り殿下にそう言われて
しまっては立つ瀬がない、とブークは苦笑した。
「ほほぅ、つまりはアレか」
にんまりとするオッピドゥス。
「一応、敢えて言っておくが
俺には何の不満もないぞ。
むしろ喜ばしい限りだ。
お陰で女房に蹴っ飛ばされんで
済みそうだしな! ガハハ!!」
やや自己完結気味に頷いて
呵呵と大笑するオッピドゥス。
「そう言って頂けると助かります。
閣下の武は城砦そのもの。みだりに
動かせませんからね」
とブーク。こちらも多分に示唆的だった。
「まぁそこらの話は明日で良かろう。
式典を夜間におこなうのは初となる上
警備を担うのはほぼ新兵だ。むしろ
そちらの方が気掛りではありますな」
と第一戦隊副長セルシウス。
騎士団の式典は魔や眷属の勢いが最も衰える
午後日の高い時分に執り行われるのが常だ。
が、明日の式典は夜分。日暮れの赤が費えた
頃に始める手筈となっていた。
「これまでの戦で奸智公ウェパルの
ひととなり…… と言ってよいものか……
が朧げながら判ってきましたからね。
楽しませている分には襲っては来ない。
ならより気軽に式典をご堪能頂けるよう
時間の都合をつけるまでの事。それに
サイアス君に係る諸々は敢えて
『聞かせる』べきでしょう」
「確かにな…… 読める範囲の気まぐれで
抑えてくれるならそいつぁ有り難ぇこった」
ブークの説明にはファーレンハイトが応じた。
「まぁともかく式典の準備は順調です。
平原よりの報告等は事前に済ませていますし
当座の議題は件の仮面となりますが」
ブークもまた、ヴァディスが持ち帰った
仮面については重大な懸念を抱いていた。
「それについてはパンテオラトリィが
一次調査を終えたようです。当人より
解説させましょう」
と筆頭軍師ルジヌ。その傍らから
すぅ、とローブ姿が歩み出た。
「では……」
と前置きなく淡々と報じ始める城砦軍師にして
祈祷士、すなわち祈祷師たるパンチョ。そして
会議室は重苦しい空気に包まれた。




