サイアスの千日物語 百五十二日目
ブークの教導特訓は徹底していた。
45分やっては5分休憩、つまり50分を
1コマとして3度繰り返し食事等に30分。
済んだら再度3コマやって祈祷等に30分。
これを1区分6時間あたりの内訳として
計7度。単なる無茶振りなどではなく
徹底的に調整制御された無茶振りで
楽団総員を管理下においた。
極めて規則正しいため次第に身体も慣れてくる。
また徐々に自我が薄弱になり教導されるまま
唯々諾々と挙動する。ある種洗脳に近い状態で
当人らの意思とは関係なく着々とした進捗だ。
3セット目、シェドとランドが基本を完備し
技能値が1に達したと見て取れる頃、劇場に
マナサがやってきた。
「随分綺麗な音を出しているのね……
誰もが煮込んだ魚人のような目を
しているけれど」
これは喰えないな、という感じの眼差しで
一同を眺めるマナサ。自分も同じ目に合う
とは微塵も思っていない風だ。
「やぁマナサ君、よく来てくれた。
そろそろ曲目に取り掛かるところだよ」
供回りから受け取った通し番号と名前入り、
艶やかな黒の革ケースを手渡しブークは笑んだ。
マナサの演奏技能は超一流の5。シタールの
技能は名手の7。器用は既に人の域になく、
敏捷は神魔をも畏れぬ30超えであった。
ヴァイオリンを手にするのは初めてだが、
この時間区分中には技能値4弱のラーズ
以上に弾きこなすやも知れない。
「私はこれを弾けばいいのね。
暫くは単独でやらせて貰うわ」
新しいおもちゃに興味津々、
ご機嫌斜めならずなマナサへと
「あぁ宜しく。そして次の時間区分からは
『教導側』でビシバシやって貰いたい」
途轍もなく「良い笑顔」を見せるブーク。
或いは騎士団長や参謀部。或いは隠密衆を
擁するローディスと同様に、ブークもまた
独自の諜者集団を抱えていた。
もっともブークの場合は非公認かつ非公式。
誰もその全容を把握してはいない。蓋し
貴族の嗜みな類ではあった。
また、ブークはトーラナを発ってより
北方領域の新拠点エルデリートに至るまで
マナサやヴァディスと行動を共にしており、
それとなくその後の予定を聞いてもいた。
詰まるところ、マナサが遅れてくる事は
とうに承知済みであった。そこでそれまでに
シェドやランドにみっちり基礎を詰め込んで
マナサが「調教」可能な水準にまで仕上げて
おく事。これを小目標の一つとしていた。
そう、すべては公爵閣下の目論み通りであった。
「まぁ…… そうなのね?
楽しみだわ、ウフフ……」
マナサもまた嗜虐心に富んだ大変に
「良い笑顔」となって楽団員らを見渡した。
哀れな羊の子たる煮込み魚人の目をした彼らは
今や、蛇にガンを飛ばされた蛙の群れであった。
特訓開始より4セット目。つまりは翌日、
すなわち式典前日の昼下がり、午後2時を
まわった辺りの事。
このセットからは教官をマナサへと変じ
自身は演奏以外の式典の進捗をあれこれと
捻り出していたブークはマナサへと言付けた。
「私と剣聖閣下は上層部の軍議で
中央塔へと赴かねばらならない。
戻りは次の時間区分となる。
マナサ君、済まないが
1曲目の仕上げをお願いするよ」
「えぇ、引き受けたわ。
2曲目も置いていって頂戴」
「頼もしいね。
なら全て預けておこう」
「どれも有名な曲ばかりね。皆も
聴いた事があるのではないかしら」
マナサはにこりと笑んで楽団員らを見た。
既に一昼夜ぶっ続け。ことこととたっぷり
煮込まれた魚人風な彼らから、満足な反応は
返ってこなかった。
「皆喜んでいるみたいね。
益々張り切らせて貰うわ」
マナサはくすりと笑って両閣下を見送った。
一方その頃。
歌に酌にマッサージにとおっかないお姉ちゃん
及び便乗した嫁御衆にフル活用されたその後
「堕落の間」に安置され、蕩けた白猫と化して
大層ぐったりお休み中であったサイアスは、
むくりと起きて私邸から公邸へふらふらと。
ディードとデネブはこれを引き取り適宜体裁を
調えて、茶と茶菓子など与え落ち着かせた。
「……何これ?」
サイアスは自身はへたばっていた間に
届けられていた書状を一瞥し、そう言った。
『探さないでください』
書状には三人衆連署の上そう書かれていた。
「探すつもりはないけれど
何が何だか調べはしよう」
とサイアス。
丁度公邸には来客があり、
その人物へと頼む意向だ。
「アトリアさん。
お願いできますか?」
「承知しました。
ベリルさん、少し外しますね……」
来客とは中央塔付属参謀部所属城砦軍師。
参謀長補佐官でもあるアトリアであった。
アトリアには報告書を小説仕立てで書く癖、
というか趣味というか、何だかそういう向き
があった。しかも大層困った事に、大抵序盤
だけ小説仕立てで残りは普通の書類であった。
以前黒の月、宴の折の退路の死守戦の報告書を
始め、アトリア作の書きかけで放棄されたげな
小説群を大いに気に入り、その一方でいつも
いいところで終わるそれらに憤懣遣る方無しと
なっていたサイアス一家の面々は直に作者たる
アトリアに訴え、続きを執筆して貰っていた。
今日アトリアはそうした作品の一つを
持ち寄った、ついでに宴会に混じったその後、
東方の忍びの末裔たるアトリアの一族秘伝の
薬草の製法を衛生兵たるベリルへと伝授すべく
話し込んでいたところであった。
「むむ…… 暇になっちゃった」
恨めしげにサイアスを見つめるベリル。
「はいはい、一曲弾かせていただきます」
とサイアスは壁際なチェンバロへ向かい、
自身の挙動により、もしや、と勘付いた。
「……有り得る」
チェンバロに向き合うも手は鍵盤ではなく
顎に添え、なにやら思案気なサイアス。
なかなか演奏しないので痺れを切らした
ベリルに脇腹をつんつくされほっぺを
ぷにぷにされつつも
「手は打っておくかな」
負けじとベリルのほっぺをぷにり返し、
怒ったのを宥め一緒にチェンバロを
奏で始めた。




