サイアスの千日物語 三十二日目 その二十五
人の4倍以上の体躯を誇る魔の眷属・鑷頭は
驚異的な膂力を活かすことができぬまま、徐々に追い詰められていた。
追い詰めていたのは対人戦闘では豊かな経験を持ちつつも、
魔や眷属と戦う城砦兵士としてはひよっ子もひよっ子の3名の見習い。
そして眷属との実戦を3度経験しただけの、当人も未だ訓練課程にある
ひよっ子兵士長。本来なら鎧袖一触に蹂躙して然るべき相手に、
鑷頭は苦戦を強いられていた。
北側に回りこんだサイアスが斬り飛ばしたのは
鑷頭の尾全体の20分の1にも満たぬ最先端の
一部分に過ぎなかった。
されども先刻からしつこく挑発行為を繰り返す
この生意気な人間に対する鑷頭の怒りは
もはや制御できないところにまで来ており、
鑷頭は狂ったように喚きたてながら
サイアスへと突進を繰り返した。
しかし。
既に初撃のような奇襲でも二撃目のような
合わせ技でもなく、単なる一過性の攻撃に堕した
鑷頭の攻め手では、蝶のように、柳枝のように
ひらひらと舞うサイアスを捉えることなどできなかった。
伯父に仕込まれ、大ヒルで磨き上げたサイアスの
回避技能は軍師の目による判定で6であり、
既に超一流を凌駕する領域にまで至っていたのだ。
サイアスは今もなおその技能を磨き上げつつ
鑷頭の攻撃を巧みにかわし、徐々に位置を換え、
再び西へと回り込み始めた。
そしてほぼ真西にまで移動を終え、再び味方の攻め手を誘おうかと
いうその時、サイアスの視界にとある光景が飛び込んできた。
鑷頭の戦闘に没頭する余り、完全に忘れ去っていた存在。
体力の訓練の仕上げとして城砦外周を行軍していた補充兵たちの、
その最初の小隊が城砦北側の一辺の東の端に現われたのだ。
彼らは向きを転じて西へと進み、前方で暴れる鑷頭と
それを迎撃するサイアスたちの戦闘に気付き、
怯み竦んで立ち往生していた。
手負いとは言えまだまだ元気な鑷頭がそちらに気付き、
硬直する補充兵の群れへと飛び込んでしまえば、
どれほどの惨事となるか判ったものではない。
サイアスはそう思い至り、クっ、と小さく呻いた。
そして鑷頭を威嚇しつつ、必死に頭を働かせ始めた。
補充兵が視界に入ってもそちらに向かう気が起こらぬほど、
鑷頭を引き付ける手はないものか、と。
鑷頭はサイアスの逡巡などお構いなしに体当たりや噛み付きを繰り出し、
サイアスは逡巡の影響など微塵も感じさせず回避し続けた。
そしてほどなくして一つの結論を得、サイアスは西方に飛び退いて
やや距離を取り、溜息を付き、深呼吸をして調子を整えた。
タンタ、タンタ、タンタ、タン。
サイアスはジャベリンの石突で地を叩き、
軽やかに三拍子のリズムを取り始めた。
鑷頭は長い口の後方にある目のさらに後ろをピクリと動かし、
暫し硬直し、身を低くしてサイアスを警戒した。
鑷頭の目の後ろにある小さな穴は耳であった。
鑷頭もまた、他の河川の眷属同様聴覚が鋭く、
目の前の人間が出す奇妙な音に反応せざるを得なかったのだ。
タンタ、タンタ、タタタ、タン。
サイアスは再度の三拍子を鳴らすと、鑷頭を見つめながら歌声を発した。
軽やかに歌い上げる短調の旋律は楽しげながらもどこか憂いを帯び、
来るべき何かを待ちわびているようだった。
そして時折長調に変じ、待ち望む何かを偲び喜ぶ声に変わった。
それはやがて訪れる秋を待ち望む夏の歌。陽射しを浴びて汗を流しつつ
いつか黄金色に輝く日を夢見る青々とした麦穂の祈り。
トリクティアの農村で生まれた秋の豊かな収穫を願うこの曲は、
夏になると平原のそこかしこで演奏され、祭りの夜には若者達が
焚き火を囲んで歌い踊り楽しんだ。平原で広く知られたこの歌曲は
「夏の祈り」と呼ばれていた。
サイアスはジャベリンで刻んだ三拍子のリズムを引き継いで
ときに軽やかに華やかに、ときに憂いを帯びて儚げに声を響かせ、
苛立ち襲い来る鑷頭を巧みにかわしてステップを刻んだ。
そして曲調にあわせてくるくると回転し、鑷頭の体当たりにあわせて
盾を当てがい、くるりと回って裏を取った。
鑷頭は狂乱して猛攻を仕掛けたが、攻撃を捨て回避に専念する
サイアスを捉えることはできず、サイアスは回避に専念しつつも
息を乱すことなく軽やかに高らかに歌い続けた。
「凄ぇ、信じられねぇ……」
ラーズが目を見開き声を震わせた。
「これは確かに歌姫だわ……」
ロイエは感嘆の声を漏らしていた。
大兜の人物は細身の鉄槍で地を叩き、
三拍子を刻んでサイアスに合わせ始めた。
次第にその音は大きくなり、手拍子が混じり、歌声が増え始めた。
ロイエたちが後方をみやると、防壁各所の櫓から兵士たちが
身体を乗り出し、手を叩き弓の弦を鳴らして伴奏としつつ、
サイアスにあわせて歌っていた。防壁の上部にもいつの間にか
人だかりができており、中には踊りだすものもいた。
「なんてこったぁ……
こいつは格が違いすぎるぜ。『本物』だ」
ラーズは誰に言うともなく呟いた。聴く者を魅了し見るものを虜とし、
ともに歌い踊らせる魅惑の声の主に対しては
確かに歌姫としか形容のしようがなかった。
「っと呆けてる場合じゃないわ!
私たちはサイアスの命を預かってるのよ!」
ロイエはそう言うと戦場剣を握り締め、
鑷頭の動きを見据えて斬りかかる隙を窺い始めた。
ラーズは戦場で戦を忘れた自分に舌打ちしつつ、
左手で弓を構え、右手で矢を番えて狙いを定め始めた。
大兜の人物は相変わらず槍で拍子を刻んでいたが、
身体は鑷頭に向き直り、来るべき一瞬に備え気迫を蓄え始めていた。
「夏の祈り」はドイツの作曲家アントン・シュモールの
「サルタレロ」をモチーフにしています。
日本では「シュモーのサルタレロ」と呼ばれることもあるようです。
興味を持たれた方は是非ご視聴くださいませ。




