サイアスの千日物語 百四十四日目 その六十八
城砦騎士団兵団長サイアス・ラインドルフ。
天馬騎士の名でも知られる彼は城砦騎士団の、
否、現行文明の有するほぼ唯一の航空戦力だ。
ほぼ、と歯にものの詰まった表現となるのは
彼に飛翔する術を与えた参謀長セラエノの
存在がある。
もっともセラエノはその稀有に過ぎる容姿と
長期的な休眠と覚醒を繰り返す人智を超えた
神秘性ゆえに、基本的に秘匿されていた。
セラエノは自身の覚醒期を闇夜が続き魔軍の
侵攻たる宴が起こる黒の月に合わせている。
そしてこれまで城砦騎士団戦闘員の実に
3割は宴で戦死し、1年を越えて荒野で
生き延びる事自体が稀であった。
よってセラエノの存在を知覚し難いという
事実も存在していたのだった。
一方のサイアスは黒の月以降も呆れるほど
頻回に戦場に出張り兵らの前で飛び交っていた。
元々荒野の空には羽牙しか居なかった事もあり
その飛翔する様が与える印象は決定的だった。
またサイアスは荒野に至ってよりの百戦で
百勝を挙げた武人であり、自ら率いた兵は
必ず生還させる無敗の将帥でもあった。
つまり前線で戦う兵らにとり、サイアスとは
最早約束された勝利と生還そのものであった。
そのサイアスが天を駆け自身らを救いに現れた。
この事実がもたらす効果高揚は計り知れず、
その神々しく美々しい勇姿に胸打たれ、兵らの
中には感極まって嗚咽を漏らし、拳を振り上げ
歓声をあげる者まで現れた。
最早、それは人を讃える様ではなかった。
武神や軍神への崇敬や信仰に等しかった。
突如南東より突風が吹き荒れて
忽然と東の1体の気配が消えた。
大ヒルらの状況認識とはこうであった。
さらに気配の消えた1体の居た辺りから
圧倒的な何者かの気配がする。
この唐突にして不可知の状況に残る2体の
大ヒルは人が異形に出くわした際に蒙る心神の
麻痺を引き起こし、呆けたように硬直していた。
だが直ぐに隘路から地鳴りの如き歓声が轟いて
大ヒルらを戦闘状況という現実に引き戻した。
大ヒルらは理解した。
自身らが奇襲を受けたのだと。
それも自身らを一撃で屠るような
飛び切りの大物がやって来たのだと。
そうなると採る手は一つ、撤退である。
河中に没してしまえば追っ手は掛からず
掛けようもあるまい。
そう見立てた残る2体は精兵らの歓声に
弾かれるように一気に河中へ没しようとした。
だがサイアスは自身に見蕩れ呆ける敵が
正気を取り戻すまで大人しく待ってやるほど
甘くなく、また間が抜けてもいなかった。
サイアスは地上の勇者らに一声掛け
笑んで見せたそのままにその右手を
隘路の西端を塞ぐ1体へすぅ、と向けた。
ごく自然になされたその挙措は、実のところ
人馬一体の膂力を活かした目にも留まらぬ
投擲攻撃であった。
その手からはかの螺旋の柄もつ鉄槍アーグレ
が放たれて、アーグレは西端に横たわる
大ヒルを掠めて大地に突き立った。
精兵の中でも冷静さの残る者や軍師、さらに
城砦騎士ヘルムートらはその様を知覚しており
サイアスの投擲が的を外したものかと感じた。
が、実際はそれで狙い通りだった。
サイアスの投擲は大ヒルを仕留めるためのもの
ではなかった。大ヒルの有する分厚くぬめった
表皮のうち接地する辺りを摘むようにして、
隘路の大地へと縫い付けるためのものだった。
サイアスには残る2体を逃がす気がなかった。
そこで皮一枚で地に縫いとめて足止めする事に
したのだった。
中央の1体は隘路へと打ち下ろしを仕掛け
護衛班を打ち据えて装甲と体力を削ったのち、
再攻撃に向けて川面に聳え、軽く撓った姿勢で
硬直していた。
この1体は実のところ、地上の歓声が起こる
その直前に、既に我に返っていた。巨躯の傍らを
投擲された鉄槍が掠めた事で、一足先に彼らに
とっての正気へと立ち戻っていたのだ。
中央の1体は南への打ち下ろしに向け軽く
北へと撓んだ姿勢であったため、荷重状況から
いって即座に鉛直方向へ高速で水没するのが
困難となっていた。
新手の異常なまでの速度を思えば
逃げ切る前に斬られるやも知れぬ。
そうした不測の事態を迅速かつ十全に鑑みて
この大ヒルはまずは攻撃の姿勢を示し、相手が
それに備えたところで撤退する事にした。
そこで北へと撓った状態から上体を旋回させ
鞭打つように東へと撃ちかかる姿勢を見せて
それを予備動作とし、螺旋の膂力を縦へと
換えて錐揉みするように水中へと沈んだ。
この作戦は功を奏し、見事この大ヒルは
新手の脅威から河中へと脱出する事に成功した。
ただし、巨躯の下4割程だけだ。
巨躯の上6割は勢いそのままに河川の
上空を派手に旋回し、紫の血の滝と内包する
諸々を撒餌のごとくぶちまけながら河川へと
落ちて派手に飛沫を上げ、先に水没した4割
ともども澱んだ河川の黒い染みと成った。
大ヒルの巨躯の旋回より速くサイアスは
十束の剣を抜き放ち、人馬一体の突撃で
これを一刀両断。既に隘路へと降り立って
残る1体へと駆けていた。
隘路東端を塞ぐ1体は既に亡き中央の一体に
遅ればせながら隘路の兵らの歓声で正気に返り、
即刻撤退しようと地に横たわる巨躯を北へ
動かそうとして、動けぬ事を知った。
痛覚が鈍く治癒力の高い大ヒルは、自身の
表皮の極一部が地表に縫い付けられている
事を、知覚してはいなかったのだ。
大いに慌てた大ヒルの東手の地表からは
馬蹄が高らかに迫っていた。それは逃れ得ぬ
死の調べ。これまで自身らが獲物に対して
そうしてきたように、今大ヒルはより強大な
存在により死を与えられようとしていた。
大ヒルは狂乱して大いに暴れた。
そして縫い付けられた部位を引き千切って
何とか自由を取り戻し、一気に河川へと
逃れようとした。が、全て手遅れであった。
「Apare ignis.」
凛とした、甘美でそれでいて全てを投げ捨て
ひれ伏したくなるような、そんな声が響いた。
疾駆するシヴァの背でサイアスは
発した音声と共に左の人差し指で「<」を。
次いで「◇」を中空に描き、右手に握る
十束の剣を胸前で寝かせ、左指でその剣身を
すぅ、となぞった。
カッと剣身が炎を纏い大気を焼いて翻った。
「燃え尽きよ」
剣風一閃、人馬一体の駆け抜けた背後では
斬断された大ヒルの巨躯が炎に巻かれ、
河中に戻る事も忘れて天地を焦がしていた。




