サイアスの千日物語 百四十四日目 その六十二
ゼルミーラの精兵中隊が瞬く間に有様を変え
戦闘態勢を整え気勢を発すると、繁茂しきった
潅木に落下し昏倒する風であった大鑷頭は即
飛び起きて負けじとその大口を開け、轟々たる
呼気を放って咆哮した。
落下の衝撃で脳震盪を起こしたが如き挙措は
欺瞞だった。迂闊に好機と見て突っ込んできた
者を、根こそぎ踊り喰う意図だったのだ。つまり
ヘルムートの見立ては正しかったという事だ。
異形の中でも大型種は常に人より格上であり、
心身共に人より秀でた能力を有している。
図体だけでかくて中身がおそまつ、などと
言う事はありえず、あらゆる能力において
人に勝る。種として上の存在なのだ。
そうした格上相手に隙や不意を衝ける僥倖は
まず起こり得ない。それが格上の格上たる
ゆえんなのだ。
格上相手に一瞬の隙を衝けるのは平素よりただ
それのみに専心し鍛錬する者ら。誰か一人の刃
でも届けばと、白刃連ね捨て身で切り込むのを
本分とする一撃必殺のプロ集団、城砦騎士団
攻撃主軍、第二戦隊の切り込み隊くらいだった。
黒の月、闇夜の最中に夥しい数の異形らが
魔の先触れとして狂気に憑かれ襲い来る「宴」。
この地獄の饗宴を最前線で生き抜いたヘルムート
には、そうした諸事への揺ぎ無き確信があった。
歴戦であるがゆえに知覚し得る事実に忠実に
ヘルムートは油断なく配下を脅威の具象へと
対峙させた。
ヘルムート自身は高次密集陣には加わらず
布陣と異形を結ぶ線分の傍らに位置していた。
これもまた、格上の格上たるゆえんである。
絶対強者たる城砦騎士にとり最も実力を発揮
できる状況とは、大抵の場合、配下の生死に
気兼ねせず攻防に専心できる単騎であった。
最も傑出した人たる城砦兵士らと対峙する
人より遥かに秀でた大形の異形。そして
人より遥かに秀でた大形の異形と対峙する
既に人の領域を超えた絶対強者たる城砦騎士。
大鑷頭としては浅い角度ながら二正面攻撃を
受ける事となる。兵の群れならともかくも
城砦騎士に迂闊に仕掛ければこちらが一蹴
される事もあり得る。
慎重にならざるを得ぬ大鑷頭はその体躯の半ば
近くを占める巨大な口を眼の如くカッと開いて
さらなる狂おしき咆哮を発した。
一方その頃。
突如の大鑷頭の喰らい付きに泡を食らって
激しくうねったマッチョタワーを足場として
釣りに興じていた件のみみしっぽ族な城砦軍師。
彼女を救助せよとの下命を受けて疾風の如く
隘路へと駆けた精兵衆の最精鋭たる6名は。
隘路の先の様子を隠す、この時点ではまだ無事
であった繁茂しきった潅木の陰に、敵が潜んで
いる可能性も踏まえて突撃態勢で隘路へと殺到。
隘路内に敵影が無いのを即座に把握すると
件の軍師の消息を追った。
「居たぞ。南縁だ」
「おぅ」
ほどなく一人が南を指呼し
勢いそのままに精兵らが殺到して
「ウッ、これは……」
「軍師殿…… クソッ!」
ボロ雑巾の如く痛みきった
ローブ姿を確認し悲嘆に暮れた。
軍師らの多くは荒野の戦場には軽装に過ぎた。
その身には布のローブとケープ、あとは精々
護身と小間物を兼ねた短剣等を装備する程度。
前線に出るも戦闘には参加せず、部隊の頭脳
として観測と分析に努める思惟のための装置。
大抵かつては城砦兵士であるため身的能力は
低くはないが、大前提として戦闘のための備え
を有さぬ軍師らが、戦闘状況で蒙る危険は兵士
より遥かに高い。
それゆえ各戦隊の実働部隊が軍師を帯同する
際は必ず最後尾に置き、安全に細心の注意を
払って督戦させるのだが、此度の調査任務では
その原則が崩れていた。
無論事前に危険は織り込み済みであり、軍師も
覚悟して志願してはいるが、斯様な形で犠牲を
出してしまった兵らの落胆と悔恨の念は
「誰がクソ軍師にゃ
無礼なマッチョ共め……」
突如ボロ雑巾が声を発したため
「ッ!?」
「おぉ、生きていたか!」
歓喜へと変じた。
当時この軍師が足場としていた、大きく撓った
マッチョタワーの最先端は地表より2オッピ弱。
平原の建築物で言えば4階相当の高さであった。
そこから不意にかつ派手に吹き飛ばされ、
ろくに受身も取れずまさにボロ雑巾の如くに
なるまで地表に叩き付けられ転がったと思しき
この軍師は、それでも未だ存命であった。
精兵の一人が慌てて助け起こそうとして
ローブに手を掛け、そして一声呻いた。
「ヌォッ! これは汚泥!!」
「何たる泥猫……」
「うっさいわ! ってぃたた……」
軍師のローブには大湿原外縁部の汚泥が
べっとりと、それこそ揚げる直前の天麩羅の
如くにへばり付いていた。これが瀟洒であった
ローブとケープをボロ雑巾に変えていたのだ。
軍師は四肢に浅からぬ損耗を蒙っては
いたものの、命に別状は無い状態だった。
彼女の語るところによれば、以下の通りだ。
垂らした香り豊かな兜と小手にマジギレした
らしき大鑷頭が跳びかかってきた、その直後。
今一人の軍師が証言したように、この軍師は
大鑷頭をかわすべく必死にえびぞりうねって
逃げたマッチョタワーから、攻城兵器の弾の
如くに派手に北へとぶっ飛ばされた。
不意かつ派手な事故ではあるが、そこは
人類4億の頂点20名が一人。叡智の殿堂の
大賢者である。事前にそうなる可能性は重々
考察済みであり、対策も相応に立ててあった。
高さ、そして勢いから見て、落下地点が隘路の
半ばになりそうであり、そこからさらに転がった
場合北方河川に落ちるか岸ギリギリに至って
異形の餌になるのが明白だ、と軍師は悟った。
そこで少しでも北への飛距離を減らすべく、
マッチョタワーからぶっ飛ぶ際に下方へ跳躍。
さらに小湿原外縁部の泥炭に手にしていた竿を
突き立てて北へと吹き飛ぶ勢いを殺し、汚泥に
落ちてしがみ付くよう転げる事で衝撃をも緩和。
こうした総合的な尽力の結果、隘路南端で停止。
一応の軟着陸を果たす事に成功したのだった。




