サイアスの千日物語 百四十四日目 その五十五
呼称に小と付くものの、小湿原は広大だ。
形状こそ異なるものの、一辺800オッピな
中央城砦本丸と同程度の面積を有している。
中央城砦本丸は人口の激減を経た当世の
どの都市国家より大規模であった。つまり
小湿原の大きさは平原の一国より大であった。
ズーはこの広大な小湿原の外縁部をぐるりと
取り囲むよう布陣して、当地を砦と成していた。
その目的は元来清澄な水を湛えるこの小湿原を
汚染して、百頭伯爵の寝床でありズーらの苗床
でもある大湿原と同様の存在にする事だった。
連中が具体的にどのような手法でこれを汚染
しているのかは、依然不明のままだった。
サイアスと不戦協定を結んだアンズーにしても、
そこまで語って聞かせる義理はなかったからだ。
城砦騎士団側としては、ズーの減少で小湿原の
浄化が進むというその事実だけで十分だった。
実際この短期間で相当に浄化が進んでいた。
もっとも浄化は小湿原の中枢から起こっており、
末端たる外縁部においては部位によって度合い
に明確な差が見られた。
大小の湿原の狭間に建つ支城ビフレストの
北城郭に在る地表高7オッピの小塔や同規模の
物見の櫓から見渡した場合、最も外縁部の状態
が良さそうに見えるのは北辺の西部一帯だった。
察するに、ズーによる包囲陣のうちそこが
真っ先に綻んだのだろう。ズーは小湿原の
南東に横たわる大湿原から飛来していた。
つまり北辺の西部一帯は最も戦力補充に不便
であり、魔笛作戦における猛攻によりこれが
追いつかなくなった。そういう事だろう。
小湿原における水質と土壌の状態を調査し
可能なら同地占有に有意な情報を入手すべく
小湿原内部へと侵入する。それがゼルミーラ
作戦の戦術目標であるため、本隊は現状最も
変化の現れているその一帯へ向かう事とした。
荒野東域の中央にでんと横たわる大小の湿原は
北方を東西に流れる河川と接するようにして
細く長い往路を形成していた。
そしてゼルミーラ本隊の目指す小湿原の北辺
西部一帯とは、往路の幅が最も狭隘となる
一帯でもあった。城砦歴100年余の戦歴に
おいて、この一角では幾度となく戦闘が発生
していた。
駐留騎士団の物資輸送への妨害工作。
第二戦隊偵察小隊への奸魔軍の奇襲。
奸智公による中央城砦への水攻め策。
架橋作戦における奸魔軍への誘引策。
今年だけでも大規模な戦闘状況が複数回
発生し両軍に夥しい数の死者を出している
まさに兵家必争の激戦地でもあった。
現状同地では城砦騎士団がその支配権を確立
しつつある。だが狭隘な陸地のすぐ北に流れる
北方河川は陸とは異なる体系を有する水の眷属
らの国土であり、いつ何時襲撃があるか判らぬ。
ゆえに本作戦には支城ビフレストの防衛主軍
より実に3割の兵員を供出する形となっていた。
北往路の安全確保と支城の防衛を何より優先
する城主シベリウスの方針を考えれば、これ
以上はけして有り得ぬ員数だ。
さらに自身の副将である城砦騎士ヘルムート
まで付けている。城砦騎士団への揺ぎ無き忠義
と本作戦を主導する幹部衆への信頼、そして
新たな次代を牽引する戦局の構築に対する
非凡な意気込みが窺い知れた。
支城ビフレストを発ったゼルミーラ本隊は
ヘルムートの指揮の下、静まりかえった
北往路を粛々と進んでいった。
重甲冑と鉄靴の鳴らす規則正しい騒音が
あらゆる物音を上書きしていた。
行軍の布陣としては、西へ向かって精兵6班
36名の各々に3-3の陣形を採らせた上で
先頭に南北2班を並べ、以降北側のみ2班。
後尾に南北2班を並べた。
俯瞰すれば「┌──┐」となった囲いの内側に
調査専門の人員を入れて防護する形の布陣だ。
小湿原外縁部よりズーの去った現状では北往路
で襲撃してくる可能性があるのは河川の異形ら
のみとの判断だ。
万一湿原側から「何か」が飛び出した場合は
囲いの内側ほぼ中央に位置する指揮官である
城砦騎士ヘルムートが対応する。
不意打ちを警戒し万全な防備を固める絶対強者、
それも重甲冑を纏う第一戦隊の騎士を一撃で
戦闘不能に追い込めるのは、それこそ宴で
顕現した魔くらいのものだ。考慮するには
あたらない。
さらに申さばそんな存在がもし仮にこの場に
出た場合、本隊は即座に壊滅し跡形も残らない。
よって考慮する事自体が無駄だとも言えた。
――隘路まではこれでいい。
そこからどうするか……――
鋼兜の奥でヘルムートは思案した。
目指す小湿原北辺西部、すなわち
北往路の西の出口たる隘路一帯では
道幅が極端に狭隘となっていた。
大型馬車が数台並んで通れるか。
オッピ立てなら3から5オッピだ。
布陣だけなら問題ない。だが河川の眷属の
特色を考えた場合、不利な状況となるのは
否めない。無駄に苦労しそうだとヘルムート
は懸念していた。
総じて北方河川に潜む眷属は、水辺であるほど
本来の能力を発揮でき、戦力指数が高くなった。
最も顕著な例としては魚人が知られ、水中及び
足場が水な状況では戦力指数が5と精兵級だが
内陸では2.5と兵士級にまで落ちてくる。
魚人以外の異形も基本的には水揚げするのが
良いとされていた。布陣だけで陸地を手広く
占有してしまう現状、全力の敵とやり合う
羽目になりそうだ。その辺り、どうするか。
「隘路そのものに布陣する必要はないかと」
と傍らで女性の声がした。
本作戦のために中央城砦から派遣されてきた
城砦軍師だ。彼女は如何でかヘルムートの
懊悩に気付いたようだ。
実に不可思議な連中だ、と内心苦笑しつつ
「ふむ、どういう手かな」
と問うヘルムート。
「釣れば良いのです」
と応えは簡潔だった。
「周辺の異形をここらで誘引し
隘路に入る前に始末しておく、と?」
と頷くヘルムート。
成程手間こそ掛かるものの、
妥当で堅実な手と言えた。
「いえ、もっと直裁な意味です」
と軍師。
どうやらヘルムートの発想は
正解ではなかったようだ。
「すまないな軍師殿。
謎掛けの類は苦手なのだ」
とヘルムート。
ヘルムートは第一戦隊上がりの城砦騎士だ。
そして第一戦隊戦闘員は、肉と鎧と盾で割り
切れ余りが無い。それを美徳とさえしていた。
ただヘルムートは幹部の末端に名を連ねる割に
平原的な常識に強く囚われている人物だ。一言
でいえば、彼はお困り様としては小物だった。
そのため城砦名物たるお困り様らに特有の、
常識を歯牙にもかけぬブッ飛んだ発想という
ヤツができなかった。
軍師はそうしたヘルムートの常識人振りを
むしろ好ましく感じつつも、こう言った。
「竿を使えば宜しいでしょう。
何、貴方がたの筋肉なら可能です」




