サイアスの千日物語 百四十四日目 その三十
敵陣左翼。主力軍にとっては右翼となる
西手の超縦長の瓦解を切欠として、戦況は
一気に騎士団側へと傾いていった。
東手の超縦長としては、張り切って対岸へと
大口手足をぶん投げたところで剣聖ローディス
の魔剣の一振りであっさり皆殺しにされるため
張り合いがないものか。
西手が崩れた時点で自ら合体を解き撤退を開始。
チェルニーと供回りが左翼の鉄塔へと到着した
頃には逃亡済みであった。
結果として、オアシス南岸の敵本陣には
ぶん投げられる順番待ちであった大口手足が
200強残留する形となっており、戦況の
不利を鑑みこのまま撤退に移るかと思われた。
オアシスの泉は南北幅が100オッピ弱。
騎士団側主力軍の構成員はほぼ第一戦隊と
第二戦隊の近接戦闘要員であるため、この
距離で敵を攻め得る人物は極小。
敵の規模からいって嫌がらせ程度にしかならぬ。
奸魔軍の残留軍団が粛々と撤退に移ったならば
退き際の被害もまた恐らくは極小で済んだろう。
だがそうはならなかった。遠目傍目にも
明らかに、敵の挙動に変化が生じていた。
超縦長が未だ健在であった時分、それに弾体
としてよじ登りぶん投げられる大口手足らの
挙動とは、少なくともよじ登り上部先端に
鈴生りとなるところまでは「制御」されていた。
要は異形らの神たる奸智公爵の企図によって
強いられた挙動であった。これは順番待ちな
大多数においても同様で、勝手に共食いして
数を減らさぬよう厳格に待機させられていた。
総じてその様は生贄の儀式に身を捧ぐ殉教者に
似ていた。が、今は違う。彼らの身の上に
絶対的かつ統一的な闇の「加護」は無かった。
一言で言えば彼らは神に「見捨てられ」たのだ。
結果、平素より貪婪に過ぎる食への衝動が
その鎌首をもたげた。要は共食いだ。
それまで粛然としていた敵軍を、操る糸が
断ち切れたような微震が襲った。その後布陣
最後方となる南部の一群は戦場を俯瞰した結果。
また最前線の一群は自陣や前方の火勢に本能的
な怯えを感じ即座にこれより遠ざかろうとした。
その結果最後方の一群は文字通り蜘蛛の子を
散らすが如く南方へと散開し撤退し出したが、
最前列の一群は背後に未だぼうと動かぬ自軍
が在るためこれと激しくぶつかり入り乱れた。
お陰で百を超す黒々と脂ぎったわだかまりが
大鍋で黒豆を煮転がすが如き有様となった。
それらは或いは乗り上げ踏みしだき、或いは
圧され潰されて多数の半壊した屍を生み、
直ちに踊り食いへと移行したのだった。
対陣する騎士団のうち戦況を見定めるべく
対岸を遠眼鏡等で窺う者らは、この異形数百
による阿鼻叫喚の地獄絵図を目の当たりにして
大いに呻き顔を顰め、名状し難い
比類なき不快感を露にした。
幸い遠眼鏡を有するのは基本的に指揮官級で
あるため実戦経験が豊富で精神もまた鋼の如し。
お陰で心身に異常を来たすところまで影響を
受ける者は彼らのうちには稀であった。
ただし元より哨戒を担う鉄塔上の櫓に布陣する
部隊などは、役目上階級に関わらず遠眼鏡を
用いる。これらのうち多くが或いは嘔吐し
或いは心神耗弱を惹起して「痛んだ」。
夜間かつ相応に遠方であった事が幸いしてか
敵方の発する狂気による損害はこれら櫓詰めの
数十名程度に留まった。
本陣で対岸を眺め自身を襲う悪寒から諸々を
察し、即刻駆け付けた祈祷士らの治療もあって
深刻な後遺症を残す者は見られなかったが
これもまた歴とした負傷である。
さらに申さばこれらの兵の心的外傷とは
奸智公にはデザートのようなものだ。
結果論的に鑑みて、おそらくこれが目的で
大口手足らを「見捨てた」のであろう
とも思われた。
とまれ先刻の一戦において燃え盛る大口手足の
突撃を防いで痛んだ兵も合わせれば、負傷兵の
総数はとしては70前後。ただし重症者や死者
は皆無であった。
指揮所へと戻ったチェルニーは、暗中かつ
遠隔なる戦で不透明な状況を軍師らに分析させ
騎士団側の勝利である事を各部隊へと伝達。
目に見える仕上げとして、軍師ファータに
2基のマンゴネルを用いて再び「小火竜」
を放たせた。
対岸では戦闘開始の際と同様派手に火柱が
ほとばしり、大口手足を狂気もろともに
薙ぎ払って形振り構わぬ敗走へと追い込んだ。
各部隊指揮官はこれを機に恐怖や不安を
上書きすべく配下らに勝鬨を上げさせた。
当初勝鬨は喧騒に紛れて弱弱しく散発的。
それゆえどこか旋律にも似ていた。
そして弱弱しくも確かな勝利の旋律は
徐々に狂気と喧騒を上書きしていった。
すると自らが発し方々でも木霊する勝鬨の歌は
確かに兵らの心情を高揚させ、やがてそれは
正真の勝利の歌と成って全軍より鳴り響いた。
第一時間区分中盤終端、午前3時45分。
夜明けまであと2時間という辺りにて、
オアシスにおける戦闘状況は
勝利を以て終了した。
彼、奸魔軍混成軍団650強。
我、「アイーダ作戦」主力軍500余。
主力軍の攻城兵器「小火竜」により戦闘開始。
膠着状態の後奸魔軍の攻城兵器「超縦長」に
より一定の損害を蒙るも反撃し撃退。奸魔軍を
半壊させ撤退せしむ。
なお開戦の嚆矢となった奸魔軍による中央城砦
への強襲は撃退済み。別働して退路や高台の
防衛拠点を襲撃した敵方の遊軍も適宜処理さる。
主力軍の戦果としては大型種「縦長」4体。
陸生眷属「大口手足」254。損耗としては
軽傷または軽症70余、いずれも加療済み。
別記として、従来風説とされていた
「陸の異形は川を渡れぬ」なる文言が
大口手足においては真であると認められた。
軍師による詳察としては、大口手足は腹部に
呼吸器を有するためこれが水に漬かる水深を
超す水を渡る事ができぬとの事。
水準的な個体ではこの水深は四半オッピ強。
よってグントラム作戦で設営中の水掘りは
水深半オッピを目安とすべきか。
補記として、本戦闘に出現した2体の上位眷属
「大口手足増し増し」のうち主力軍左翼の側背
を狙った1体は、撤退に見せかけさらに迂回し
主力軍の後方を狙っていた。
これを主力軍に別働する第四戦隊騎兵隊
「オーバーフラッグズ」が捕捉し強襲、撃破。
オーバーフラッグズは奸魔軍より逃走した
縦長のうち大湿原を目指していた2体をも
合わせて撃破していた。
午前4時過ぎ。
焼くべきものを焼き尽くした方々の炎が
現世より消失し、再び夜の帳が舞い降りて
オアシスにも星月の囁きが聞こえ出した。
チェルニーは後方諸所と連絡を取って退路の
状況を確認し、周辺に敵影皆無との情報を得た。
これを受け本戦闘において結局無傷であった
第二防壁及び障壁さらに鉄塔を連結した櫓
といった野戦陣の構造物の部分的な解体を開始。
同時にオアシスと高台防衛拠点を結ぶ線分上に
点在する街路のうち、高台拠点より100オッピ
南東となる地点のものの下へと騎士シュタイナー
率いる第一戦隊予備隊を派遣。
同地を占拠させ、解体した建材をそこへと
運ばせた。同地には鉄塔と防壁を組み合わせて
歌陵楼と同規模の楼閣を建造し、余材は高台
防衛拠点の恒常化に回す移行であった。
敵の敗走直後ゆえ周辺に敵影無しとの事ゆえ
付近の哨戒はオーバーフラッグズのみに委ね、
オアシス主力軍の大部分が野戦陣の解体と
資材の運搬に従事した。
チェルニーら主力軍幹部は最後までオアシスに
残留し、戦場の確認やオアシスの泉の水質
測定等多岐にわたる実地検分をおこない、
最後の部材となる解体された竈と共に
オアシスを後にした。
こうして第一時間区分終盤午前5時55分。
アイーダ「作戦」主力軍は夜明けの薄明に
照らされるオアシスよりの撤収を済ませた。




