サイアスの千日物語 百四十四日目 その二十四
「それでどうするのだチェルニー」
すっかり平素の様相でローディスは問うた。
午前2時半過ぎ、第一時間区分も既に中盤だ。
参謀部の観測によれば日の出は午前5時47分
となっており、概ねあと3時間といったところ。
魔も異形も元来夜の生き物だ。夜が明ければ
相応に事態が好転する可能性は高かった。
もっとも此度のこれは宴ではない。また
奸智公は他の魔と異なり現世に顕現せず
概念存在のまま率いる事を好むため
異形は完全に捨て駒扱いされ得る。
よって奸魔軍に有利な「天の時」が
消え去っても居残らせる可能性が
無い訳ではなかった。
「正直、城砦が奇襲された状況より
よっぽど今すぐ帰りたい心境だがな。
まぁ様子見で良いだろう。
現状戦力が拮抗しているのは夜だからだ。
夜が明ければ敵の戦力は落ちる。
奸智公としても本拠の守備隊でもある
こいつらを、この一戦のみで磨り潰す
気はないだろう。多分、な。
それに……」
チェルニーは言葉を切って南方を。
オアシスの泉を挟んだ南手に「在る」、
無数の赤い斑点をもつ暗がりそのものを見た。
チェルニーの野戦の名手としての才覚は
紛う事なきものであるし、そもそも王族ゆえ
軍政にも強い。余人には量れぬ事情もあろう。
そう捉えローディスは続きを急かさず
ただ静かに仄かに笑んで待った。
視界の隅にその様を捉えたチェルニーは
「……その笑顔でさんざ
女共を泣かせてきたのだろうな」
と悪態をついた。
「決算すれば幸福が勝る仕様だ」
「まるで悪びれぬか」
「悪いのは常に世の中だ。俺は常に正しい」
「その発想には全面的に賛同してやる」
両者は何やら見解の一致を見た。
だが序列上位の正軍師がそれを見かね、
「『物資』面を鑑みるなら、両軍とも
余り悠長な事を申せぬかと存じます」
とやや婉曲的に釘を刺した。
ここで言う物資とは無論、主力軍の主力たる
第一戦隊戦闘員らの胃袋に納まるべきものの
事を指していた。
分量としては後2食分は十分にある。
つまり昼までは問題なく粘れるという事だ。
だが一方で、平素は1時間区分毎に1度食事を
とる連中なのだ。そろそろ何か食わせないと
士気に悪影響が出る恐れもあった。
「それもあったな……
『夜食』は3時だと通達を出しておけ」
「了解」
ひとまず士気の低下は免れ得そうだった。
「喫緊状態で飯か。
敵を刺激してみるのか?」
飯の話が出たせいか、野戦陣全体で
浮ついた気配が一気に引き締まった事に
呆れるやら感心するやらなローディスが問うた。
「結局の所、全ては成り行きによるのだがな。
まぁ俺としては、サイにゃんとはねっかえり
との『交渉』とやらが、どのレベルでの
ものかを聊か判じ兼ねているのだ。
直裁に言えば奸智公だ。アレが交渉結果を
どう見做しそして扱うかが判然とせん。
それを確かめてみたい意向がある」
とチェルニーは応じた。
荒野東域においては大小の湿原を根城とする、
飛行する異形、「羽牙」。「はねっかえり」は
この羽牙の上位眷属だと確実視されている。
一方ではねっかえりは以前より、遥か高みの
存在である荒神たる魔のうち、奸智公爵との
関わりが取り分け深い、さながら使徒の如き
存在である事も確実視されていた。
黒の月、宴の折の新兵カペーレに纏わる一件
などは、未だ記憶に新しいところだった。
さらにはねっかえりは宴以降、十中八九
奸智公爵の命により、勢力戦力の衰えた小湿原
へと大湿原の羽牙を補充する役目を負っていた。
また此度の戦ではこれまで以上に明確に使徒
として動き、日中には奸智公への娯楽の提供
のために差し向けられサイアスを襲った。
そして先刻、奸魔軍の別働隊として騎士団の
本拠たる中央城砦を奇襲し撃退され、経緯は
定かでないものの捕縛され交渉に至っていた。
要するに、このはねっかえりという上位眷属は
奸智公爵の意向の代弁者としての立場が非常に
強いという事だ。
よって交渉を起こした事それ自体に奸智公爵が
深く関与している可能性が高かった。ならば
奸魔軍本隊の挙動にも一定の影響を与えていて
良いのではないか。それがチェルニーの抱いて
いる発想であった。
もっとも一方で相手が魔と魔の眷属である。
平原の人の世で起こる政戦両略の駆け引きの
類がどこまで通用するか判ったものではない。
所詮はやたらと人に興味津々な奸智公であれば
もしや、といった程度の期待感でしかなかった。
だがそれでも、戦局を動かし彼我に膨大な
影響を及ぼすその前に、占い程度のノリで
懸けてみるのは悪くなかろうと、少なくとも
チェルニーは見做していたのだった。
そして。
この目算は間違いでは無かったようだ。
第二時間区分の中点というべき午前3時。
日中ならば『お八つ』と呼ばれ食事の類が
供されてしかるべき、そんな頃合い。
「閣下、右翼の鉄塔より報告。
敵軍左翼が転進を開始したとの事」
序列1位の正軍師が報じた。
「……確かか?」
「は。敵陣左翼のできそこない機動大隊は
正面に数十体を広域展開し目隠しとした上
南方へ撤収したとの事です」
チェルニーの問いに詳報する軍師。
オアシスの泉の南北で正対する両軍のうち、
アイーダ作戦主力軍からみて右方。すなわち
奸魔軍としては左翼にあたる一帯を占める
できそこない機動大隊150に動きあり。
主力軍の視界から見える範囲に散開した殿を
残して数を多く見せつつ、大隊そのものと
しては撤収を図っているとの事だった。
見掛けをごまかし内実で別働。
虚実を巧みに織り交ぜた気の利いた一手は
矢張り、奸智公爵自らの采配によるのだろう
とチェルニーは感じざるを得なかった。
「報告者は」
「第一戦隊副長大隊所属小隊長、ヴァージル。
階級は兵士長。此度の戦で奸魔軍の動向を
最初に報じた人物です」
「ふむ」
再びチェルニーに応じる正軍師。
本作戦で既に頭角を現していた人物による
再度の報という事で、信憑性に拍車も掛かった。
そこに正軍師がさらに曰く
「ヴァージル兵士長は
『最後のファランクス』の一人です。
能力や意気を鑑みても信憑性は高いかと」
先の宴の折、第一夜。
城砦外郭南防壁外部に築かれた野戦陣の
西側、その最前線で歩哨を務めた第一戦隊の
哨戒部隊があった。
この部隊は大口手足らの混成大隊による奇襲
に最初に気付き、報告。その後乱戦に突入し、
全滅寸前となるも5名が生き残った。
そのうち戦闘開始より終了まで地獄の巷で
死戦に臨み、そして勝ち抜いた勇者が2名居た。
一名は哨戒部隊長であった兵士長。
今はシベリウスの副官として
ビフレストに詰める城砦騎士ヘルムートだ。
そして今一人が哨戒部隊の最若手。
殺到する異形の群れに怯み竦むも
仲間の叱咤で戦意を取り戻し、縦長が
振ってきた際には城砦騎士シベリウスの
機転によって圧壊より逃れた強運の持ち主。
その後はヘルムート共々シベリウスの供をして
修羅場をくぐり抜けた武運の塊というべき人物。
それがヴァージルであった。
当時を思い出しチェルニーは頷いた。
「成程な。奸魔軍に撤退の意向はあるようだ。
ならばこちらは粛々と、飯の支度を進めよ」
「御意」




