サイアスの千日物語 三十二日目 その十八
熱を欠片も持たない初夏の夕日が、荒野の空を照らし上げていた。
西からの赤みがかった果実の様な輝きは北方に川の煌きを反射させ、
否が応にも手前の黒いわだかまりをサイアスたちに見せ付けた。
時折まばらに霞むそれは一個の生き物ではないようだが、
中には崩れぬ大きな塊も混ざっていた。
大きさの違うこれら複数の黒いわだかまりは、
内実はどうあれ外観としては単一の特徴を有していた。
すなわちそれら全てが城砦へと、
待ち構えるサイアスたちへと着実に近づいていたのであった。
「ちょっと遠いわね…… そこのあんた。
弓兵なら目が良いんじゃないの? 何がこっちに来てるのよ」
ロイエが目付きの鋭い男に問うた。明確に格上と見えた
ヴァディスの前では実にしおらしくしていたが、同格であれば
年齢性別お構いなしに頭ごなしのざっくばらんな口調だった。
「あぁ? まぁお前らよりは良いかもだが……
ふむ、でかいのとちんまいのがいるな。ちんまいつっても人間並だが」
こちらも負けず劣らず伝法な口調だ。傭兵とは皆こういう風かな、
などと感じつつも、サイアスは以前ヴァディスが使っていた
筒の様なものは勲功いくらで貰えるものかと皮算用していた。
「ふむ、でかいのは1、ちんまいのは10だ。ちんまいのは
魚に似ちゃいるが…… でかいのはちょっと見たことの無ぇナリだな」
「意外と多いわねー」
ロイエが率直な感想を述べた。
「祭りが近いから張り切っているのかな」
サイアスはさらりとそう述べた。
「祭りって何よ?」
ロイエは当然の問いを発した。
「魔と眷属の宴会」
「はぁ? 何よそれ」
ロイエは肩を竦めて問い返した。
「まぁ、ロクでも無ぇもんだとは判ったぜ」
目付きの鋭い男も肩を竦めた。大兜の人物はというと、
前方を見据えたまま終始微動だにしていなかった。
北方の河川と荒野の間には、時折転がる岩や倒木を除いて
遮蔽物が殆ど無かった。また城砦側がやや高台にあり、
緩やかな傾斜のお陰で視界は概ね良好と言えた。
城砦から川までは、城砦の一辺と同程度の距離であろうか。
それなりの距離のその中ほどを、黒いわだかまりは動いていた。
さらに大きな一つは小さなものより動きが遅いようで、
小さな10のわだかまりはこれを置き去りにして迫り、
今やわだかまりは二つに割れていた。
「小さい方は『魚人』と見て良い。これだけ川から離れた場所なら、
一般的な城砦兵士とほぼ同程度にまで弱体化しているはず」
サイアスは3名にそう告げた。
「もう一つの大きい方は、
心当たりがあるのは大ヒルだけれど、どうだろう……」
「んー、ヒルやら蛇やらって感じじゃねぇな。肢は生えているようだ。
やけに長いが、それでもはっきり頭・胴・尾が別れてるぜ」
サイアスの問いに男が答えた。二つに割れたわだかまりのうち、
小さい方は既に目測で1000歩未満の距離に迫っていた。
陸上活動が苦手な魚人にしては、かなりの速度であるようだ。
少し特殊な類なのかも知れない、とサイアスは思案しつつ眺めていた。
「サイアス! 魚人と鑷頭だ!
鑷頭は陸じゃ鈍いが馬鹿力だ。
かすっただけでも危険だぞ!気をつけろ!」
後方頭上から声が届いた。振り返ると北門脇の防壁の
高い位置にある鉄窓から、守備隊の兵士が身を乗り出していた。
「ジョウズ? 判りました。感謝します!」
サイアスは振り返って仰ぎ見つつ返答した。
「20名いる。牽制射が要るなら指示をくれ!」
「火矢はいけますか?」
「勿論だ。が、鑷頭は矢を弾くかもしれんぞ?
それと、炎上狙いなら油矢を先に撃つ必要がある」
「射程は?」
「ここから『曲射』で200歩程度だ。
それより遠いと油が散って、小さな的には効果が薄い。
油矢、火矢の順で指示をくれ。連射はできないぞ!」
「曲射」とは対象に向かって上方へ射出し、放物線を描いて到達する
いわゆる「弓なり」の軌道を用いた射撃方法だ。飛距離を最大限稼げる
ため、遠距離射撃に向いていた。また一旦矢が視界から消えるため、
対象から回避され難いという利点もあった。
一方対象に向かって直線軌道で最短距離を飛翔せしめる射撃方法を
「直射」と呼んだ。こちらは飛距離が短いものの弾速が高く、
また張力を高効率で貫通力に変換できるため、近距離では特に好まれた。
熟練の射手が長弓を用いた場合、曲射では歩く歩幅で最大500歩ほど、
直射であれば最大50歩ほどの距離を飛ばした。また直射は適切な距離
であれば、金属の甲冑をも貫通せしめた。
「了解しました。魚人に牽制射を加えた後、
油矢の準備を願います!」
「了解だ! 指示を待つ!」
兵士はそう告げると鉄窓の奥へと引っ込んだ。
城砦の防壁内部には上下に開く鉄製の窓が付いた櫓が複数内臓されており、
今はそれらのうち城門上部の左右の櫓に10名ずつ弓兵が詰めていた。
櫓は防壁内の他部位にも有り、すべて防壁内部の回廊で繋がっていた。
「ようやく400歩か。鑷頭とやらはまだ1000歩ってとこだな」
目付きの鋭い男はそう呟くと、
「よぅ大将、俺とこの弓ならそろそろ当たるぜ。撃っていいか?」
とサイアスに問うた。
「両端から撃って敵を中央にまとめて貰いたい。できますか」
「任せな。それと俺はラーズだ。適当に呼び捨ててくれや」
「判りました。魚人の弱点で判っているのはエラの付け根です」
「ほいよ。側面、腕の手前辺りだな」
目付きの鋭い弓使いラーズはそう言うと、
先端を切り落とした様な形状の鏃を持つ矢を
四本右手の指に挟み込み、つつ、と数歩前にでた。
「んじゃ、ちぃとお先に楽しませて貰うぜ」
ラーズはニヤリと笑って弓を構えた。




