サイアスの千日物語 百四十四日目 その二十
地表より優に40オッピは在る四角錘の天頂部。
地表に暮らす遍く者がおよそまともな手では
辿り着けぬ、その天頂部の傍らの空。
そこにはおよそ現実味のない、神話や
叙事詩の一節の如き光景が在った。
セラエノの庵の正面玄関。
空に面した大扉を内部ごと破砕せんと
凝固した稲妻の如き閃光の欠片を投げつけた、
羽牙と呼ぶには余りに大柄で荘厳な異形。
巨大な獅子の頭部に5枚の翼、そして1本の
人の腕を有する上位眷属「はねっかえり」。
もっとも、はねっかえりとの命名は昨日中に
戦場で提示されたばかりであり、手続き上は
未着の状態にあった。
一方投げつけられた閃光の欠片を音高らかに
弾いて落としたのは、夜目にも眩い光の人馬。
今は大扉を背にはねっかえりへと対峙する
名馬シヴァを駆る兵団長サイアス。
閃光の欠片を投げつけた上で切り込むつもりで
あったためか、はねっかえりは直線距離にして
大扉より5オッピ未満にまで詰めていた。
一方サイアスは大扉を護るべく、はねっかえりと
大扉の狭間を大扉に寄り添うように占めている。
よって対峙する両者の間に残された間合いは
4オッピ程度というところだ。
サイアスとシヴァの踏み込みであれば刹那。
文字通り1瞬で詰め得る距離であった。だが
はねっかえりの戦闘挙動は未だ定かではなく、
何より今のサイアスの役目は庵の防衛にあった。
高機動を誇るはねっかえりの挙動が自身らを
上回っていて不覚を取り、結果大扉を抜かれる
事なぞあってはならない。故に無理攻めはせず、
「こんな夜更けに御機嫌よう。
早すぎる再会は喜び難いものだ」
と声を掛けた。
相手は人語を解する。
ゆえに掛けられた言葉を吟味し、
そこに隙が生じる事もある。それが狙いだ。
「貴様、カ……」
はねっかえりは明瞭に。
そして実に感情豊かに声を発した。
それは驚愕、失望、怒りを含む嘆息だった。
サイアスはその様に内心舌を巻いた。
恐るべき速度で会話能力が上達している。
異形の口より発せられる共通語は
発生といい抑揚といい、堂に入っている。
さながら王者の天運無きを嘆くが如しだった。
異形の最盛期たる深夜ゆえか、この異形特有の
叡智ゆえか。サイアスは後者を理由だと捉えた。
そこでサイアスは負けじと大仰に演じた。
「深夜に御婦人の寝所を襲うとは
どこまでも見下げ果てた奴だ。
……相手が幾つか知っているのか?」
就寝中の御婦人とやらに聞かれれば
タダでは済まぬ内容だった。
「……笑エバ良イノカ?」
とはねっかえり。
ユーモアのセンスをも有するらしい。
「好きにしていい」
と応えつつもサイアスは脳裏で目まぐるしく
異形を分析し、さらなる対応を講じようとした。
はねっかえりはサイアスのそうした内面を
即座に見抜き、これぞ好機とばかり日中と
同じ手口に出た。
すなわち大いに羽ばたいて突風を起こし、
相手が怯んだその隙に撤退を図ろうとした。
しかし突風の代わりに起きたのは苦悶の叫び。
はねっかえり自身のあげたものだった。
小刻みに5翼を羽ばたかせ中空で制止し姿勢を
保っていたはねっかえりは、続く大なる羽ばたき
のために5翼の挙動を合わせ一旦沈み、そして
大きく伸び上がった。
途端。右上方の翼が根元より断裂し、同時に
断たれた鬣や血飛沫と共に地に落ちていった。
「逃げられるとでも思ったのかしら?
私はサイアスほど甘くはないわよ」
夜空に不意に響く声、そして刹那殺到した
圧倒的な鬼気迫る気配に、はねっかえりは
苦悶を忘れ驚愕した。
これは、この声、この気配は果たして
人の子が成し得放ち得るものなのかと。
大いなる闇そのものが語るが如きその気配は
彼ら異形が恐れに怖れ畏れて止まぬ、神にも
等しい威に満ちていた。
「既に結界が張ってある。
我らを護りお前を殺すためのものだ」
とサイアス。
半ばはったりだ。如何にニティヤとて
何もない中空に蜘蛛の巣の如く妖糸を
張り巡らせる事はできぬ。
サイアス、そしてニティヤは日中邂逅した際の
はねっかえりの撤退の手口を分析し、これに
対応する形で罠を張っており、その一端が
今発動した。そういう事であった。
だが実際に手傷を負わせたゆえか、
脅しとしての効果は実に覿面であった。
はねっかえりは羽ばたきによる逃走を諦めた。
そして次なる一手を探り、時と隙を稼ぐべく
サイアスに問い掛けた。
「貴様、今マデドコニ居タ」
「寝てた」
この問い掛けは不調であり次に至った。
「質問ヲ変エヨウ……
貴様、如何ニシテ我ガ攻メを見破ッタ」
「知っていた」
この問い掛けには脈があった。
「知ッテイタ、ダト? ドウ言ウ事ダ」
はねっかえりの言にサイアスは暫時思案した。
問い掛ける敵の意図は明白であった。
だがこの異形はサイアスの、いや人類の
想像を遥かに超えて聡明であるという事を
サイアスは理解し始めていた。
この異形は明確な知性や理性を有しており、
それは非常に人の有するものに寄り添った
形を成していた。さらに日中の経緯もある。
よって問答無用に斬り殺すという選択肢以外
にも、何か可能性が見出せるのではないか。
サイアスはそう考え始めてもいた。
「互いの航空戦力を脅威と感じているのは
人も魔軍もさして変わらぬという事、
これがまずは1点目。
大小の湿原の狭間への偵察の際、追っ手を
率いる身でありながら撤退したお前の
挙動への考察、これが2点目。
そして宴の折カペーレに潜んで中央塔へと
飛来して見せ、戦における『参謀』や『指令』
の概念を理解し羽牙には不可能な高高度の飛翔
を、お前が成しえると示した事。これが3点目。
以上3点を鑑みて。
現状城砦騎士団が有する唯一の航空戦力であり
最高の情報体でもあるセラエノ閣下を脅威と
見做した奸智公の命を受け、お前が排除しに
来るであろう事は従前より懸念されていた。
そこで休眠期間に入る前の閣下ご自身
より命を受け、お前がこうして攻めて
くるのを待っていたのだ。
襲撃の時期は予測済み。
むしろこちらの希望通り。
閣下は此度の大規模作戦を立てた当人だ。
中央城砦に残留する兵力が手薄になった
その時を狙い、オアシス駐留軍を撤退させる
『もののついでに』襲ってくるに違いない。
端からそう承知していた訳だ」
抑揚薄く淡々と、されど流麗に語るアイアス。
その声音には魔力が宿っており、異形の身にも
好ましい類であった。
内容も極めて興味深いものであったため
はねっかえりはすっかり神妙に、諸々の
負の感情を、戦すらを忘れて聴き耽っていた。
そうした様をちらりと見やり、
一通り語り終えたサイアスは
「……では改めまして、もう一度ご挨拶を」
と鞍上にて軽く一礼した。
「ようこそ『人智の境界』へ」




