サイアスの千日物語 百四十四日目 その十八
西域守護城砦が一城、中央城砦の本丸は、俯瞰
すれば東西南北に辺を持つ正方形をしている。
防壁の厚み等を度外視し模式的に見るならば、
本丸の内側には内接円上の内郭隔壁がある。
さらに内郭隔壁の内側には、東西南北に
頂点を持つ四角錘な本城があった。
そして本城中央塔とは、その天頂部
より地表を貫く支柱でもあった。
中央塔の上層部は本城上部と構造上完全に
一体化している。下層では円柱状だが上層では
本城と相似した東西南北に頂点を持つ正方形だ。
外縁部へと出る扉は一つきり。最も安全な
方向に付いている。地表と違い上層を襲い得る
のは空を飛べる羽牙に限定されている。
よって羽牙の根城が大小の湿原であるため、
扉はこれらと最も遠い南西方向に付いていた。
本来は黒の月、宴の折専用だった指令室とは
異なり、上層外縁部は日夜平原や支城との
光通信のために頻用されている。
唯一の連絡路である扉は当然頻用されており
整備は抜群で、さほど力を込めずともするり
と音もなく開いていった。
外縁部は光通信に用いる関係から、余計な
光源を極力排除してあった。そのため扉の
両の傍らに篝火を有すものの奥ほど仄暗い。
日中ならば開け放たれた外壁から明かりも
入ろう。だが夜間だ。天井や壁面もあるため
星月の明かりにも期待できず、外縁部の闇は
扉から離れるほど圧し掛かるように深かった。
ルジヌは扉左手の篝火の傍らより未着火の松明
を一本手に入れ、篝火にかざし自らの供とした。
異形は常に火を嫌う。篝火は時に武器より
頼もしい。左手にした篝火で纏わり付く闇を
押しのけるように、ルジヌは周囲を窺った。
床、そして壁面に血痕無し。肉片無し。
装備の破片なし。戦闘の痕跡も無し。
少なくとも現時点でこの一帯は「無事」だ。
そう判じたルジヌはそのまま左へと進んだ。
上層外縁部は上層をぐるりと覆う回廊状を
している。回廊は東西南北の角にあたる部分が
やや広く、他は基本的に同じ幅となっていた。
光通信や狼煙のための設備があるのは東西南北
の角たる4箇所で、ルジヌはこのうちまず南の
角を目差していた。
ルジヌは内心失笑していた。
危地に至った人は無意識に左回りに動くという。
心の臓を少しでも危険より遠ざけるためとも、
軸足を遠ざける事で挙動し易くするためとも。
これは人の本能に根ざした行動様式だと
言うが、理由などはどうでも良かった。
ルジヌには自身の挙措がそうした俗信レベルの、
一般人の行動心理の範疇で説明できるのが
可笑しかったのだ。
城砦の子といえど所詮は人。人智の外なるを
垣間見ても、そこに留まるには至らぬのだ、と。
少なくともルジヌは最も危険が潜む可能性の
高い右回りの進路を採らなかった。何故だか
採れなかったのだった。
無論強迫観念のみが左回りの理由ではない。
ルジヌの知る限り最後に光通信を成したのは
オアシスに対してだ。羽牙の敵襲を知らせる
ためのものであったはずだった。
東西南北の角には指令室と連絡するための
玻璃の珠も設置されているはずだ。
連絡は基本的には指令室からの一方通行だが、
今は現場の兵士が返答できるようシラクサが
回線を「繋いで」いるはずでもあった。
外縁部回廊部分にも採光用の小窓はあった。
だがそれらは全て閉じられており、松明が丸く
照らし出す範囲を除けば、闇は外よりなお深い。
ローブの衣擦れ、靴の床音。そして
燃え往く松明のじわりとした音無き音。
既に肌寒いはずの夜気は絡みつくように重く
知らず頬を汗が伝う。四枚羽の戦力指数は
12。少なくとも宴の折はそうであった。
新たな姿を得て再臨したかの者の戦力指数は
推定18だという。ルジヌの戦力指数は6。
熟練兵士長級だが魔眼頼みであり、視界の
効かぬ現状では低下していて然るべき。
何より自身に3倍する戦力指数を有する
相手に太刀打ちできるとは到底思えなかった。
そんな事ができるのは、そして平然と生き残る
のは一時代に20名も居ない。人の世の守護者
にして絶対強者、城砦騎士だけだった。
ぬめるような暗がりの中、それでも随所の
非常用の篝火に明かりを灯し、少しでも
人の身に有利な状況をと善処し進むルジヌは
ほどなく上層外縁部の南の角に辿り着いた。
回廊より広い分一層闇の深い一角だが、
そこは意外な程の暗さと静けさに満ちていた。
まず、中央塔側の壁際に、本来灯っている
はずの篝火が、火をともなってはいなかった。
中央塔側の篝火は常灯が基本であり
定期的に兵が巡回し木材や油を補充する。
そも放置でも1時間区分は燃え続ける代物だ。
篝火は「消された」。それで間違いないだろう。
また本城の斜面には常に上昇気流が吹いている。
光通信のために外壁が開放されているならば
吹き上げる風が音を立てていて然るべき。
然るに今は自身の周囲を除けば耳鳴りがする程
の静けさに包まれている。ルジヌは通信機器を
目印として一角の外れ、外壁側へと慎重に歩み
寄った。果たして、外壁は閉じられていた。
篝火はともかく、人が操作すべく造られた
外壁の開閉を異形が成せるとは思えない。
よって外壁は「兵士」によって閉じられた。
これも確かなところだろう。
恐らく当地で光通信を担当していた兵士らは
何らかの事由で危地を察し、シラクサが連絡を
取る前に外壁を閉じ、篝火をも消して避難した。
そういう筋書きがしっくり来る。
ルジヌはそう考えはじめていた。
もっともまだ一箇所目だ。通信機器のある、
兵士が留まっている可能性のある角は未だ
3箇所残っている。
然様に見解を取り纏め、中央塔側の壁際の篝火
を灯して傍らの玻璃の珠にて指令室のシラクサ
と南の一角に関しての連絡を取ったルジヌ。
その後さらなる探索を続けるべく再び暗がりへ。
左手回りに東の一角を目指し闇深い回廊へと
足を踏み入れようとした。
と、その時。
「……それ以上進まない方が良いわ」
突如左方より声がした。
見やるまでもなく、そこには
中央塔の壁面が広がるのみ。
「……東手には結界を張ってある」
と今度は背後から。
「下手に進めば寸刻みね……」
さらに右手の暗がりから声が響いた。
「状況をお聞かせ願えますか、ニティヤさん」
頬を、首を止め処なく伝う汗。
自身が恐怖し竦んでいる事を知るも
気丈に毅然とルジヌは問うた。
「全て予測済み。
そして対処は済んでいる」
荒野を包む夜の闇、そして異形の睨め付ける
眼光と息潜め吐き出す殺気。それらに数倍する
圧倒的で濃密な、深遠よりの重圧が満ちていた。
「貴方は指令室に戻るといい」
さながら荒野に在りて世を統べる、或いは
世界そのものであるかのような大いなる闇。
「永劫」は再び声を響かせた。
「あとはヴァルキュリユルが引き受ける」




