サイアスの千日物語 百四十四日目 その八
辺り一面を火の海に変える本家火竜には及ばず
と言えど、百オッピ弱先の対岸の暗がりに
屹立し荒れ狂う火柱の勢いは尋常では無かった。
奔放なる熱の踊りである炎という事象、
その概念を、松明に燃え盛る実の炎の姿を
借り受けて自らの精神の煌きを以て再現する。
そうしてこの世に産声をあげた炎の小竜らは
柄の間宝珠の揺り篭で眠り、闇を渡り敵陣へと
飛び込んで己が存在の何たるかを。すなわち
破邪顕正の理を顕して荒れ狂うのだった。
触媒を用い儀式魔術の多大なる負荷と手続きを
軽減しつつかつて光の巫女であった稀有な仕手
が生み出すこれら炎の竜は、他の魔術や
「精神の矢」と同様その具現に魔力や気力を
必要とする。
有り体に言えば燃料は魔力だ。
よって魔力が尽きるまでは現世に留まる。
さらに申さば荒野の異形は魔の眷属とも
呼ばれるように高い魔力を有している。
よって凄まじく燃えまくるのだ。
猛る火柱は勢いそのままに次々周囲へと飛び火、
そこにさらなる砲撃が数度。二撃目以降は油玉
だがこれが文字通り火に油を注ぐ格好となり
敵陣中央にぽっかりと空隙を設けた。
「あはは! どんどん燃えろぉー!」
宙に心を舞わせるが如く、半ば憑かれたように
さらなる炎の小竜を生み出そうとするファータ。
だがその憔悴振りは歴然としていた。
すぐに祈祷士2名が左右から飛び掛ってこれを
押さえ付け、間断なく回復祈祷を開始した。
自らの精神を有限の事象に変換する魔術
などという行為はどだい人の手に余るのだ。
かような規模の魔術ともなれば類稀なる仕手が
触媒や術具の力を借りても気力の損耗は甚大だ。
持てる気力の半分を一時に一気に失えば
その者の精神は欠損する。正気を失い記憶を
失って人智の外なる狂気の世界より再び
戻ってこれなくなるのだ。
こうして精神を何度も瀕死に追い込み遂に
「壊れた」光の巫女がファータであった。
そして無論、これ以上壊すわけにはいかぬと
誰もが思っていた。
人類の存亡を掛けた戦いゆえ持てる力を用いぬ
という選択肢は無く、そもそもこれのために
当人が随行を志願してきた経緯はあるが此度は
既に十分であるとて、後送の準備が整えられた。
「一連の砲撃により敵陣中央の損耗甚大。
大口手足40体焼滅。30体半焼。
残存する本隊は半焼分を捕食中。
戦果として撃破70」
正軍師が抑揚なく戦況を報じた。
「相変わらずの連中だな……」
未だ炎の燻る対岸で忙しなく動く黒い
わだかまりが何をしているのかを知り
チェルニーは顔をしかめた。
「現状敵布陣全体に変化なし。
両翼のできそこないの大隊も動かず」
正軍師はなおも抑揚なく淡々と。
一方ローディスは
「今の砲撃だが。炎上した個体が
泉に逃げ込む事は無かったな」
とチェルニーへ。
「そうだな……
少なくとも大口手足に関しては、
水を嫌うのが確かだという事か」
共に腕組みし対岸を見つめたまま、
チェルニーも応じた。
大口手足の主たる生息域は岩場だ。
少ないながら荒野にも雨は降り、当然岩場も
雨水に塗れる。よって濡れずには済まぬため
水を完全に忌避するという訳でもなかろう。
だが炎上しつつも水に飛び込むという最も
簡単な打開策を採らなかった事は、多くを
示唆しているように見えた。
「うむ。またその一方で砲撃に対応し
率先して軍を動かす気もないようだ。
……それが奸智公の命ゆえであるのか、
それとも奸智公の命なきゆえかは判らんが」
「どのみち動きたくとも動けんだろうな」
再びローディスにチェルニーが応じた。
チェルニーは奸魔軍が布陣を動かせぬ
のには、三つの理由があると観ていた。
一つは戦力差。
異形は人より高い知力を有する。人の持つ
軍師の目に相当する能力を有する個体もいる。
騎士団の正軍師が成したのと同様の戦力査定を
既に済ませていても何ら不思議はなかった。
戦力的に格上の相手が待ち受けるところに
わざわざ飛び込む馬鹿はいない。
騎士団側は本拠たる中央城砦を急襲されている。
よって遠からず必ず退き戦となり奸魔軍としては
追い討ちし放題となるのだから、ここは待ちの
一手だろう。そういう事だ。
今一つは布陣の妙。
オアシスの泉を挟んで対峙する両軍には
共に渡河して直接敵本陣を襲うという
選択肢が採れない現状がある。
よって奸魔軍が野戦陣のアイーダ主力軍を
攻めるにはオアシスの泉の両側から回り込む
必要があるが、そこには東西方向に数十オッピ
の防壁が築かれている。
その裏手には思わせぶりな空白地がありまず
罠の存在が疑われるので直接突破はやり難い。
そのため損害なく攻め入るならばさらに大きく
迂回する必要があり、そのために左右へと兵を
分ければ数的有利は消滅する。
また逆に全軍を一挙に一方のみに迂回させれば
騎士団に進退自在の余暇を与える事となろう。
騎士団側は本拠を急襲されている以上、
ゆくゆくは必ず撤退する。その際追い打てば
容易に崩せるのだがら今無理する必要性がない。
そういう事だ。
さらに一つは奸智公爵の意向である。
オアシスを挟んでの対陣に限らず、現状荒野で
対峙する両軍の戦況を主体的に構築している
のは荒神たる大魔、奸智公爵に他ならない。
専ら傍観者を気取る奸智公爵の意向は
異形らの意思や本能とは別のところにある。
奸智公爵は大口手足に砲撃に対して逃げると
いう選択肢を許さず、踏みとどまるままに
屍へと変じせしめた。
この事から少なくとも奸智公爵に現状変陣の
意向が無いと類推できる。そういう事だった。
野戦陣の随所では兵らが息を潜めて
敵陣を窺い、迎撃の機会を待っていた。
そんな中布陣中央の指揮所だけが観劇に
耽るが如き穏やかな空気を有していた。
「うむ…… ? おい大物が動いたぞ」
「言った側からか! ……アレは何をしている」
ローディスの指摘にチェルニーが呆れた。
そこに遠眼鏡で状況を観測した正軍師曰く
「……産卵ですね」
と淡々と。
「中央後方の『大口手足増し増し』2体、
大口手足の幼体を散布。計120体が
敵陣に補充されました。総数572」
頗る冷静にそう告げた。
これで奸智公の意向が益々はっきりした。
互いに睨みあう状況を作り、本拠を襲って
窮地をも演出しつつ騎士団側の出方を探る。
これに騎士団側が強い姿勢を示してみせると
それを見世物として堪能しつつ何食わぬ顔で
帳消しにして、さらなる見世物を寄越せと
したり顔でせがんでいるのだ。
あら、面白い事をするのね。
では、次はどうするのかしら?
さぁ、もっと楽しませて頂戴。
そう言わんばかりのやり口だ。
「感じ悪い女だな!」
と吐き捨てるチェルニー。
無論奸智公爵への文句だが、
正軍師に全力で睨まれているのは
平素よりの人徳の成せる業であろう。




