サイアスの千日物語 百四十三日目 その九十九
冷え冷えと冴え渡る月が天頂に近付いていた。
月は無数に煌く満天の星々と共に、己が版図の
繁栄の絶頂を誇らしげに謳歌する風であった。
かくも眩しき夜空の栄華は、地表では一筋の帯と
成っていた。荒野北部を東西に流れる北方河川は
白銀の煌きを水面に散りばめた天鶩絨の如く、
夜風に撫でられ艶やかに在った。
こうした北方河川の煌きより南方へ暫し。
小さく細かくさざなみ立つ遠浅の水場より
やや南方へと下った暗がりに、時折ぬらりと
光沢を放つ幾つかの影が蠢いていた。
ひたひたと湿った足音を伴って身体を屈める
ように練り歩き、ぬらりとした影たちは
そこにある奇妙な、しかし理路整然とした
幾何学的な構造物を調べ始めた。
その構造物の有する独特の形状、すなわち
外に粗雑で内に精緻な造りであったり、影ら
には聊か理解しがたい異常なほど精確に計算
し尽くされた、「人工物」である事を誇示する
かのような仕儀を確かめた影らは暫し硬直した。
一旦動かぬとなると最早不気味な程に彫像
めいた、それらぬらりと光沢をもつ異形の
影は沈思黙考を重ねに重ねた。
やがて色味の違う光沢の一体は北方へ。
遠浅の水場へと向き直り、腕を掲げつつ
足で大地を摺り慣らし、そうして奇妙な
音の震えを発した。
数拍の後。
地上の銀河の如き北方河川の南の縁より
十数のぬらりとした影が身をもたげ、遠浅の
水場を経由して南方の音の震えを目指しだした。
第四時間区分もいよいよ終盤に差し掛かる
午後10時の半ば頃。ランド率いる工兵中隊
による施工はかなりの進捗をみせていた。
まずは大回廊の西手な岩場側。岩場東端域の
鋭角な切り欠きは中央城砦外郭西防壁北端の
真西を中心として南北に50オッピずつ。
つまり100オッピ分手広く拡張されていた。
これらは恐ろしく労力を伴う反面至極単調な
施工でもあり、付近の安全さえ担保されて
しまえば工兵らにとっては造作もない部類の
作業に入っていた。
一方大回廊を挟んで東手、高台に続く傾斜に
おける石垣の構築については西側の施工の
3分の1未満の進捗であった。
石垣を施すにはまず傾斜自体の整備が要る。
次いで積み方に合わせ切り出した石材と拾い
集めた岩塊の実測値に基づき再現可能な応力を
計算し、場合によっては素材に適宜追加の加工を
施して最適解を確保して積み上げる。
こうした3段階の工程を踏むために施工の進捗
は3分の1未満。概ねそうした次第であった。
此度ヴァルキュリユルが高台の縁に築かんと
する石垣は城砦北東の支城ビフレストと同様の
東方諸国風のものだった。
足場としての石積みは平原全土で見られるが、
東方諸国風のものは耐震設計に優れていると
されている。
傾斜を直線的に覆うのではなく局面を成して
扇の如く覆う。これが東方諸国の流儀であった。
西方諸国なら石造建築のアーチ等で見られる
そうした要素を取り入れた、堅牢さに加え
「用の美」というべき雅さをも具えるのが
東方の城の石垣である。これを再現すべく
ランド中隊は最大限に腐心していた。
ここ100年余の間、荒野で天然自然に由来
する大規模な地震が観測された例は皆無である。
だが一方、かの貪瓏男爵をはじめとする強大無比
なる顕現せし荒神「魔」によって、小規模かつ
局地的な地震が引き起こされた事はあった。
大回廊を挟んで西の岩場と東の高台は共に
河川の浸食に耐えた強固な岩盤を有しているが、
その強固な岩盤を足踏み一つで砕くのが魔だ。
凡そ成し得る基礎工事において楽観し手を抜く
など以ての外。叡智の限りを尽くしに尽くし
金城湯池を目指すべしと、施工に当たる誰もが
理解し意識を共有している。
よって東西の進捗の齟齬には拘泥せず、
着実に施工が進められていた。ランドの見立て
では、西手で得た全ての石を組み終えるのは
午前3時。休憩込みで夜明け前後というところ。
そのため岩場での作業は完全に中断し、南方へ
展開していたロイエ隊を呼び戻して布陣を
コンパクトに保ち、長期戦の態勢を整えていた。
一方その頃。
中央城砦外郭北防壁より
北西に概ね1000オッピ。
四戦隊営舎での軍議の段階で騎士団が
グントラム作戦の目標地点と見做していた、
北方河川の南岸と城砦西手の岩場が合流する
「岩礁地帯」では。
凡そ膠着状態にあった魚人と大口手足による
同地を巡る争いに新たな展開が起こっていた。
元来岩場を縄張りとしつつもその北限となる
岩礁一帯へは積極的に寄らず、精々河川より
飛び出した魚人を摘み食う餌場程度に捉えて
いた陸生眷属たる大口手足。
総数のうち少なからぬ量を岩場南端よりさらに
南西の丘陵の拠点の防衛のために移住せしめ、
なおかつ先の宴において大幅に数を減らし。
岩場全体としての支配権が随分弱体化した
この大口手足であったが、奸智公が独自の事由
で送りつけた上位眷属らのもたらした幼体を
戦局打開の鍵とみて、思い切った事に一旦岩場
奥地へと撤退した。
投石による小競り合いに興じていた魚人らは
これを好機とみて嵩にかかって岩礁地帯を占拠。
敵が逃げた事に気を大きくしたものか、止せば
良いのに追撃を開始。否実際は開始しようと
その布陣を南北に長く深縦せしめた。
岩場は西程高くなる。岩礁内でもこの傾向は
変わらない。そこで縦に延びた敵陣を狙って
地の利を活かした大口手足らが西手より落石で
攻撃。魚人の群れに少なからぬ被害を与えた。
魚人はこれに慌て一挙に後方たる岩礁北限の
水際へ。そしてこれを待ってましたと鑷頭と
大ヒルが飛び出して背後から魚人を襲って
阿鼻叫喚の地獄の踊り食い大会となった。
こうしてほうほうの体となった魚人らの
敗残軍は河川を岩場をも避ける形で岩礁を東へ。
北方河川が大きく南にうねったその南端である、
かつては南方への支流であった大回廊の北端。
すなわち遠浅の水場付近へと逃れたのであった。
河川に潜む水の眷属のうちでは魚人は最下層。
鑷頭や大ヒルはその捕食者であり天敵で、
魔軍という枠組みがない際はひたすら敵対する
存在であった。
もっともやられっ放しという訳でもなく、
魚人は異形に対して騎士団がそうするように
数を利してこれらに立ち向かう事はあった。
少なくとも彼らは鑷頭や大ヒルの幼体を
積極的に捕食してもいた。それゆえ益々鑷頭ら
からは狙われるのだが、今はそれは措くとして。
北方河川の南端でありかつ大回廊の北端でも
ある遠浅の水場は、大ヒルの巨体では侵入
できない事から、岩礁地帯ほどではないものの
魚人にとり幾分過ごし易い場所であった。
もっとも鑷頭は普通にここに侵入してくるし
さらに人の群れが頻回に訪れる。よって魚人と
して同地は楽土というより戦地であって、好んで
留まるという事もなかったのだが。
此度のこの状況下において。敗残する一群に
先行する小隊が何やら南手に構造物を発見した。
窪地の深さは水場の底に程近い上南北方向には
壁がなく、一方東西には敵の侵攻を防ぎ得る
程の壁がある。一言でいえば、お誂え向きだ。
魚人らはそう思った。
そして明らかに「人工」であるこの構造物の
存在意義を現況と照らし合わせた魚人らは、
これを接収し橋頭堡として活かす事を決意。
ベオルクは同地に篝火一つすら残す事なく、
完全に野営地へと引き揚げていた。よって聊かの
労もなく魚人らはグントラム作戦の真の作戦目標
としてベオルクらミンネゼンガーが築いた窪地の
うち、最も北の一つを占拠した。
そして魚人らはこれは既に我が物ぞと唾付ける
ノリなのであろうか、早速窪地の北手を素手で
或いは拾い集めた錆だらけの騎士団制式装備群
でもって掘り返し、早速水場と繋げて水浸しに。
こうして魚人らは図らずもベオルクの思惑通り
に同地を占拠し、水場と三つの窪地を繋げて
遠浅の水路でもある拠点と成し、岩礁地帯の
再攻略に備え出したのであった。




