サイアスの千日物語 百四十三日目 その六十八
右手のアーグレは大きく弾き飛ばされ
左手は手綱。姿勢は崩れ回避も間に合わぬ。
唯一動くのは左手のみであり、サイアスは
その左手を差し出して、暴威を以て殺到する
できあがりの大脚を受け止めにいった。
できあがりはその様にカッと双眸を見開いた。
笑止ィッッ!!
自らが放つ渾身の蹴りを斯様な細腕で止めよう
というその態度に対し、できあがりは嘲弄を
通りこして激高した。そしてより一層の怒気と
気迫を込めて大蛇の如き蹴り脚を奔らせ、
そして、すんでのところで止めた。
何時の間にか、忽然と。
サイアスの左手には優美なる蒼の弧が在った。
そのどこまでも深い、そう、夜空に揺蕩う
銀河の奥底をも思わせる深い刃の輝きに
できあがりは形容し難い禁忌を感じた。
彼の崇める大いなる荒神、荒野に在りて
世を統べる大いなる「魔」。それ以上の何か。
この世に遍く在りと在る総てとは次元の違う
圧倒的な、深淵にして不可侵な何者かが、刃の
蒼の輝きの奥底より自身をじっと見据えている。
そう感じ萎縮し痺れを感じた。
一言でいえば、恐怖した。
異形らの崇め奉る荒神である魔、以外に対し
初めて抱く、天蓋が降り注ぐが如き畏怖や恐怖。
それはできあがりにこう告げていた。
この刃はいけない。絶対にいけない。
神託の如き警鐘が心中や脳裏で打ち鳴らされ
数瞬木偶の如く竦み上がったできあがりは、
翼を逆に羽ばたかせ、一気に後方へと
飛び退り着地した。
サイアスとシヴァもまた虚空を蹴って大きく
飛び退き、滑るように旋回しつつ後方へと疾駆。
飛び込む分の間合いを取って、再び
できあがりと対峙した。
できあがりは己が身に生じた予期せぬ出来事に
戸惑い軽く首を振って、再び対峙する人馬を
見据えた。そして本日何度目かの瞠目を招いた。
纏う馬鎧の端々から仄かに陽光を零す名馬
シグルドリーヴァも、これを駆る兵団長にして
カエリアの騎士サイアスも、依然気配は静かな
まま。まるで静かに佇んでいた。
だがサイアスの構えは一変していた。
鞍上に在りて手綱は持たず、左半身に体を捻る。
右手にはアーグレ。腰だめに掻い込み引き絞り、
左手には繚星。逆手に握って前方に翳す。
螺旋の鉄槍と蒼の霊刀。
異なる二種の利器による二刀流。
それは強敵との死闘の最中に昇華し開眼した
最適解。サイアス流馬上戦闘術における
「真のガーダント」であった。
どこまでも堂に入った人馬一体の姿に対し、
できあがりは地の底より響く哄笑を発した。
笑うしかなかった。
敵の美事さを、己が不明を。
明らかに格下であるにもかかわらず、
容易く一息に屠る事ができぬ。
いやそれどころか1合打ち合うその毎に、
戦技を練磨し昇華してどんどん強くなっていく。
そのくせどこまでもふざけた事に、
実に涼やかに、眠るが如く佇んでいる。
こういう人の子は見たことがない。
そしてあの刃。アレはいけない。
と、できあがりの巨躯が落雷を浴びたが如く
ブルリと激しく揺れ動いた。自身の意図せぬ
その挙動に、できあがりは、自らが崇め奉る
荒神の不興を蒙ったことを悟った。
荒神は身勝手に戦を遊ぶできあがりを責めた。
成すべきを成せ、さもなくば即、死せと。
荒野に在りて世を統べる大いなる魔に
抗う術など、異形には無い。
できあがりは大いなる神の御心のままに
最後の一撃を放つ事にした。
徒手格闘とは自らの肉体を、特に四肢を武器の
如く操作して攻防に用いる戦闘術の総称だ。
鍛え上げた肉体は鎧であり盾であり、
また剣となり矛となる。これは利点であると
同時に重大な弱点でもあった。
利点とは武器が自身の身の一部であるため
完全に意のままに制御し得るという点だ。
およそ武器は設計時に企図された以上の
用法を許容しないものだが手足、特に手は
武器の枠組みを越えて恐ろしく自在に、
創造的に動く。
これにより仕手のセンス次第で変幻自在な
攻め手を高い命中精度で成しうるのだ。
この点においては他の武器の追随を許さない。
一方短所もまた他の武器の追随を許さない。
まずは間合いだ。手に持つ武器は手に持った分
遠くを間合いに収めえる。一方徒手格闘では
自身の四肢の届く範囲のみが間合いであり
なけなしの防衛圏となる。
この差は戦の単位が大きくなるほど
致命的なものとなっていくのだ。
短所はもう一つ。より致命的なものがある。
それは攻防に用いる体躯や四肢が、そもそも
守るべき対象なのだという事だ。
武器は戦闘に用いれば必ず欠損する。
四肢を戦闘に用いれば四肢が欠損するのだ。
武器なら欠損しても交換できる。が、四肢は
交換が利かない。
戦闘に用いれば用いる程壊れ、
壊れれば壊れるほど戦力が落ちる。
他武器においても同様ではあるが、徒手格闘
ではその推移が余りに著しいのだった。
よって徒手格闘は大前提として、体躯において
相手を圧倒している事。使用により四肢欠損
する状況が起き難い事を要求する。
上位種ともなれば多少の欠損は時間があれば
修復し得る事もあり、必然的に徒主格闘は
異形の特権でもあった。
荒野に棲まう異形らは人より遥かに強靭な肉体
を有し、生半な武器は弾き飛ばす。剣で斬ろう
が槍で突こうが、並の腕では刃が立たないのだ。
であるからこそ異形らは、人への攻撃手段と
して四肢を用いた攻撃を。さらにはそれを
洗練した徒手格闘術を用いるのであった。
もっともこれは武器が使えぬ事を意味しては
おらず、拾った武器は普通に使う。技量が
伴わぬため大抵はさほど戦力の加算には
ならないが、例えば魚人などは武器を用いた
戦闘術をも十二分に習得していた。
とまれ徒主格闘は用いる事で自身が壊れて
しまわない事を使用基準に置いている。
できあがりとしてはそうした基準に基づいて
これまでサイアスを攻め立てていたものだが、
忽然と沸いて出たあの刀にはそれが通用しない。
それだけははっきりと理解できた。
触れれば確実に斬られる。そして
恐らく斬られれば決して治らない。
それが判っている状況では、気軽に四肢を
敵へと突き出す事はできないのだった。
よってできあがりは四肢を武器として
攻める手立てを放棄して、自身の巨躯と
その大質量を最大限に活かす攻め手へと
切り替える事にした。
すなわち、有り体に言うならば。
突進、そして体当たりであった。




