サイアスの千日物語 百四十三日目 その六十五
威容を誇り悠然と歩み寄る異形の上位種と
たたただ佇むサイアスとの距離は、既に
20オッピに迫りつつあった。
全長が半オッピを超える四足のできそこないと
二本足で直立して1オッピに勝るできあがり。
両者の体格と膂力敏捷を鑑みれば、既に
一拍内外で詰め得る間合い。すなわち
近接戦闘の間合いである。
荒野に在りて世を統べる大いなる荒神が一柱
にして、現状観測され得る最大規模、公爵級
と目される大魔、「奸智公爵」。
奸魔軍の主でもあるこの凄まじく怜悧で
恐ろしく身勝手な傍観者気取りの女神から
熱烈なる恋文の類を頂戴したサイアスは、
未だそこに記された謎めく言葉の真意、否
神意を図りかねていた。
だが既に、サイアスに残された猶予は一拍を
切っている。いざ近接してしまえば戦うにせよ
退くにせよ、全身全霊を以て臨まねば瞬く間に
潰される。それほど圧倒的な戦力差があった。
前衛たるできそこない2体は共に戦力指数6。
この2体のみであれば徒歩でも卒なく倒せよう。
後衛のできあがりは推定戦力指数30。
サイアスの観測技能は6であり、敵が初見の
場合精確に観測し得るのは観測技能の5倍まで。
よって最低でも30という事でそれ以上かは
不明であった。
絶対強者にして人の世の守護者と謳われる
城砦騎士の戦力指数が10以上20未満。
一時代に何人も居ない、万夫不当の英雄
とされる城砦騎士長の戦力指数が20以上。
現状城砦騎士団で20以上の戦力指数を
有す者は3名。第一戦隊長オッピドゥスが
30強、第二戦隊長にして剣聖ローディスが
40以上、第四戦隊副長ベオルクが20半ば
と言われていた。
つまりできあがりと単騎でやり合って勝てる
のはまず2名。できそこないと奸智公の策謀
付きでも返り討ちにできそうなのは唯一人と
いう事になる。
サイアスとしてはひたすら回避に専念し
隙あらば逃げる。それより他に選択肢は無い。
対処としてはまず手前2体を手早く潰し
包囲や挟撃を受ける可能性を消去した上で
可能な限り時間を掛けて隙を見て撤退。
戦闘プラン自体はとうに立っていた。
ゆえに思惟に没頭していたのもある。
とまれ未だ答えを見出せぬそのままに
互いの距離は詰まってゆくのだった。
――何故できあがりは四足獣の真似事を?
異形3体はやや歩みを速めた。
――「飛べる」事を隠すためか?
赤子の鳴き声の如き甲高さ、そして
地鳴りの如き重低音。両者を共鳴させる
大柄なできそこないの咆哮が轟いた。
――否。魔笛作戦でロイエの討った大柄な
できそこないが飛翔滑空する様を
サイアスは歌陵楼上より目撃している。
そしてサイアスが目撃していた事を
けしかけた奸智公爵は当然見知っている。
つまりサイアスに「飛べない振り」は
通用しない。その事を奸智公は十二分に
承知しているのだ。
不意にできあがりが雷鳴の如き唸りを発した。
するとそれに弾かれるようにして、できそこない
2体は一気に加速。サイアス目掛け全速で
駆け出した。
――では「どの程度飛べるのか」を隠すため?
距離15オッピ程。
俊足の人の子が平地を全速で駆けて6秒の距離だ。
この異形らならまさに一拍だろう。サイアスは
前衛2体との接触を4秒と算定した。
――否。それもない。サイアスはできあがり
が如何に飛ぶかを知っている。黒の月、
宴の第一夜に出現したこの異形は飛翔滑空
のみならず、少なくとも羽牙並には自在に
飛んでいた。高度も3オッピは確実に。
サイアスはその様を指令室から見ていた。
大地を躍動し疾駆する大柄なできそこない
2体の体躯が背後のできあがりの姿を隠す。
単なる殺到ではなく目隠しの意味もあるようだ。
――そしてサイアスが指令室からそれを
見ていた事をも、奸智公爵は知っている。
サイアスを狙うカペーレが中央塔まで
飛んできた時点で、中央塔や指令室の
何たるかを理解している事は明白だった。
1秒経った。
できそこない2体を自身の挙動を隠す盾とも
成したできあがりはやや身を屈め、暫時遅れて
できそこないらを猛追しようとした。
――詰まる所、四足獣の真似事は飛行能力の
隠蔽や詐称を目的とはしていないと見て
良いだろう。では何故斯様に、上位種に
とって恐らくは屈辱的な仕方で現れたのか。
理由は必ずあるはずだ。そして
ロイエに倣い直感を信じるならば。
それは必ず翼と、そして「飛ぶ」と
いう事に関与しているに違いない。
案外。この上位種と奸智公はむしろ……
2秒経った。
その時視界の右端より
キラリと眩い何かが溢れた。
輝きは黒になり無数の蛇の如く宙を泳ぐ。
それはヴァルキュリユル本隊の車列上に
陣取る長弓部隊の放った征矢の群れであった。
征矢の群れは速度に軌道、着弾点を微妙にずらし
殺到するできそこない2体の後方を目指した。
これは敵の挙動を完全に読んだ上でのもの。
すなわち城砦軍師の照準による面攻撃であった。
これは作戦完遂のためとは言え自らの主であり
夫であるサイアスを置き去りに進まねばならぬ
指揮官代行クリームヒルトによる、せめてもの
置き土産であった。
効果は覿面であった。
できそこない2体を目隠しとして別途サイアス
に殺到しようと企図していたできあがりは
征矢の群れにその出掛かりを潰され
苛立ちに吼えた。
3秒経った。
そして。
――そうか。そういう事だったか。
この置き土産を得て、サイアスは全てを悟った。
――これは祭。即ち神事の再現なのだ。
サイアスは心中そう頷くと眦を決し、
自身へと迫るできそこない2体目掛け
シヴァと共に金色の矢と成って突撃した。
1オッピ≒4メートル
1拍=4秒=20瞬(瞬=0.2秒)




