サイアスの千日物語 百四十三日目 その四十七
亡者を乗せて地獄を奔る火車の如く。
或いは絢爛たる光輝の彩る曼荼羅の如く
燃え盛る羽牙の織り成す輪は地表を目指す。
阿鼻叫喚の咆哮を上げる羽牙も徐々に
声音を失ってただただメラメラと燃え往く。
火遁の術は成った。アトリアは羽牙
一個中隊10体の撃破に成功したのだ。
先陣切って落下する、足場として真っ先に
屍と成っていた羽牙は当初よりアトリアの
ばら撒く火口の下方にあったため、火の
勢いは高くはない。
よってアトリアは自身の火遁で
自身を焼く羽目に至ってはいなかった。
無論これも計算のうちだ。
ただ問題は未だ自身も足場も2オッピ以上の
中空にあり、程なく地表へと激突する事だ。
つまりこのままでは、結果として羽牙らが
企図した通りの死を免れ得ない。アトリアは
奸智公爵への聖餐として羽牙を道連れに終わる。
そういう事になる。
このまま成す術なく居れば、だ。
だが端から羽牙と心中する気など、当の
アトリアにはさらさらない。何より今はまだ
軍師として出征した作戦の、まだほんの序盤
に過ぎないのだ。
ここで死んでは役目を全うできぬ。
それは無念の極みであるし、何よりも力に
なると心に決めた若き英雄の伝説の一節に
いたずらに悲劇の影を落とす事になる。
そも死なばもろともは策とは言えぬ。
城砦軍師としてのプライドがそれを
許すはずもなかった。
燃えつつ落ち往く羽牙の火焔車。のうち
最も低い位置にある繋がれた屍が遂に
2オッピを切った。
繋いだ先の2体のうち、アトリアが火口を
ばら撒く際に足場とした方はやや火の回りが
悪く、死に掛けの割りには未だ活きがよかった。
屍を浮かべる2体の活きに明確な差が
ある事を確認しアトリアは跳躍した。
飛び往く先は、より弱っている方の
羽牙を繋ぎとめている鉤縄であった。
アトリアは鞘ごと手にしていた小太刀を
右逆手で抜刀、抜き付けの一閃で縄を斬り
鞘ごと左手で縄を掴んだ。
右手の小太刀を鞘へと戻し、右手で縄を。
左手で小太刀を腰へ。極無造作な挙措を
終えた頃跳躍の勢いは反転し下方へ。
これによりさながら炎の空中ブランコであった
羽牙3体の在り様が崩れ、斬られた側が一気に
傾斜。片側の支えを失った屍は大いに傾き
姿勢を崩し、残る一体のみにぶら下がる
格好となって落下速度を増した。
身を焦がす炎と屍の重みで絶叫めいた咆哮を
上げていた、残る1体の縄付きの羽牙。
その身体がふいにガクンと沈んだ。
その下方、縄の先には屍がぶら下っていた。
そしてさらにその下方。屍より伸びた
もう一本の縄の先にはアトリアが。
アトリアは縄を斬った後、縄と共に下方へ
と墜ちざま足場な屍を勢い良く蹴り付けて
斜め下方へと加速して、既に1オッピを
切った地表間近を高速で走る振り子と化した。
下方へと真っ逆さまに墜ち往く炎の円の中心で
最も下方を揺れる振り子と成ったアトリアは
振り子が振れきり最も高くなったその刹那を
捉え、縄を手放し宙を舞った。
一旋、二旋。
振り上げる振り子の軌跡の延長を辿り
アトリアは伸身の宙返りを見せ宙を舞う。
背後では屍であった羽牙が地に落ち潰れ、
炎の円も落着間近。
アトリアは炎の影を帯びて宙を舞い、
地表間近から鉄柱の上方、すなわち
1オッピ強にまで持ち上がっていた。
もしも。
宙を舞うアトリアの側に
幸運にも鉄柱が在ったなら。
その上でもしも。
アトリアが驚異的な身体能力を以って
これを足場とする事ができたなら。
或いは華麗なる脱出劇が完成したやも知れぬ。
だがそもアトリアは近場に鉄柱のない位置に
追い詰められた上で上空へ連れ去られていたし
振り子と化して振れ飛んだ先に鉄柱が生えて
いるような幸運は無かった。
最寄の鉄柱へはどの方位でも1オッピはある。
既に他方へと跳躍する術を持たぬアトリアは
あとは墜ちるしか選択肢がなかった。
そして振り子運動の頂点であるがゆえに
上下に向かう力が釣り合い安定した状態に
あるが、あとは地上へ向かい墜ち往くだけだ。
1オッピの高さから勢いよく地表へと叩き
付けられれば、人の身ではまず間違いなく
無事では済むまい。運が良ければ命がある、
その程度でしかないはずだ。
地表で顛末を固唾を呑んで見守る者らは。
続く惨劇を予感して、或いは目を背け
或いは心中で悲鳴を上げた。
だが、惨劇の幕切れは退けられた。
アトリアは宙に立っていた。
中空に、何も無いはずの空間に
すくと腕組みし立っていた。
およそ非常識な光景に見守る者らが
瞠目する中、アトリアはトトンと横に跳ね、
最寄の鉄柱の横腹を蹴りつつ地に降り立った。
この場で誰よりも目敏い者。すなわち
暗所でも精密に視覚する「梟の目」と
図抜けた動体視力をもたらす「鷹の目」
を両有するラーズ。
さらには恐るべき勘でとにかく何でも看破
する「狼の目」を持つロイエなどは、宙を
跳ねたアトリアの足元で燃え盛る炎の影が
煌いたのを見て取った。
「おぉ、こいつぁ……」
「流石はニティヤ。やるわね!」
ラーズが、ロイエが感嘆の声を発した。
そう。鉄柱と鉄柱の狭間では、アトリアの
落下と跳躍に合わせ、ニティヤが妖糸を張り、
仮初の足場を用意していたのだった。
ニティヤが糸を張るのが一瞬でも遅ければ。
ニティヤが糸を張る場所が僅かでも異なれば。
アトリアが宙に足場を得る事はなかったろう。
そしてアトリアが一瞬でもニティヤへの信を
失い、迷い惑い挙動を不確かにすれば、落下
と跳躍の釣り合う一点で足場を得て、宙に
立つ事はできなかったろう。
およそ比類なき使い手が二人在り、かつ互い
への絶対的な信頼を共有して初めて成せる、
これはそんな神技であった。
「あらあら、もうバレてしまったのね……」
不意に姿を表したニティヤがクスリと笑った。
「ニティヤさん」
すいとニティヤの側に現れたアトリアは、
口元を覆う漆黒のスカーフを外して珍しく
上気した面持ちを見せ、そう呼ぶと深々と
頭を垂れて感謝を示した。
「素晴らしかったわ、アトリアさん」
ニティヤはアトリアを抱きかかえるように
面を上げさせ、手を取り合って策の成功と
アトリアの無事を喜んでいた。
中央塔付属参謀部所属城砦軍師が一人。
参謀長補佐官アトリアンジュ。通称アトリア。
東方諸国で数々の伝説を残す忍びの一族が
流れに流れて西方諸国へと移住し、同地で
郷士となってはや百年。
一族の頭領は男であればアトリアンツォを。
女であればアトリアンジュを名乗り、共に
代々の「アトリア」と成って諸国の権力者
の影として仕えた。
当代アトリアは中でも白眉とされ、一族に
栄耀栄華をもたらすと嘱望されていた。だが
彼女は望まぬ王の影たるを嫌い、荒野へと
渡り軍師となった。
仕える相手は自ら選ぶ。それが
当代アトリアの生涯唯一の我儘だ。
兵らの上げる勝ち鬨を背後に自身の無事を
心底喜ぶサイアスらを見つめ、アトリアは
心が満たされゆくのを感じていた。
1オッピ≒4メートル




