Are you ready ?
「さあ、覚悟はいいかしら」
先程までたわいのない話をしていたはずだった。それがどうしてこんな状況になってしまったのか、目の前の彼女はノンフレームの眼鏡をきらめかせて、仕事用のデスクにもたれるように座っていた僕へおおい被さるように詰め寄っている。身長差で言えば僕の方が高いはずなのに、触れんばかりに詰め寄って僕の両脇に手をつき見上げるように見つめる彼女の瞳はまさに獲物を目の前にした肉食獣だ。さながら僕は草食動物。取って食われる寸前である。
「なんでこうなったかわからない?全く、鈍感にも程があるわよ。自分の口にしたセリフをよーく思い出しなさい」
彼女はこの体勢を維持しつつ僕に考える時間を与えてくれるらしい。しかし唇は触れそうだし柔らかな太ももや胸が当たっていて思考より生物本能が勝ちそうでツライ。流されそうになる意識になんとか鞭を打ちつつ、僕はさっきまでの行動を必死に思い出そうとする。
「えーっと、高橋女史。こ、ここは職場デス」
なけなしの理性が現実を思い出させようと必死にひねり出したセリフは、彼女にとっては了承済みのことだったようで、綺麗に口紅が彩られた唇が、綺麗に弧を描いた。しかし目は笑っていない。
「休日出勤でやらなきゃいけないモノは終わらせたわよ。あとは帰るだけ。よって職務中ではないわ。それに私と貴方だけしか出勤してないし」
「いやでも、その、ケジメとかそういうの必要じゃないデスか…?」
「貴方が言ったんでしょう?今日は二人だけだし気楽に行きましょうって。…ねぇ?ちゃんと今どうしてこうなったか考えてる?」
「いや!だって‼︎現実を思い出さないと理性が!」
正直、こんなエロ漫画のような状況は上げ膳据え膳でおいしく頂きたいところなのだが、ここで状況に流されるのはなんの解決にもならない。
「別に、理性の箍を外してもいいのよ?」
「いやいやいやいやいや!だって、その…」
彼女は僕が何の為にここまで理性を総動員させているのか分かっていない。昨日までならこんな状況に軽く理性を流されて一度だけだからと爛れたカンケイを持ってしまっていたかもしれない…いや、どっちにしろダメだが!さっき知った事実を知っている今ではさらにそんなことしちゃいけないと思うからだ。
「高橋女史、好きな人いるって言ったじゃないですか!振り向いてくれないからってヤケ起こしちゃダメですよ!」
───時は遡り、ほんの5分前。
「高橋女史って結婚はまだなんですか?」
思えば随分間抜けな質問だ。これが少し離れたデスクに座り仕事の片付けをしている彼女へ投げかけた質問だった。
高橋女史は、正確には高橋理津子さんという妙齢の女性だ。タイトスカートとシンプルなスーツを着こなして、綺麗に結い上げた髪とキリッとした印象の眼鏡に整った顔立ちをしている。見た目通り仕事も出来て男とも対等に渡り合うので、気が強そうだとか性格がキツそうだという印象が社内ではまかり通ってさも真実のように認識されている。
しかし同じ課の同じチーム内では、また違った認識もまた生まれている。もちろん仕事の上では前述のようにデキるお姉さんなのだが、それ以外の仕事に関係しない物事に関しては物凄く面倒見が良くてマメマメしい優しい人であるということ。
休憩の時のコーヒーも何回入れて貰ってしまったかわからないし、休憩室で話してみると仕事の時の厳しさは欠片も見えなくなり、世間話もするし冗談を言えば優しい笑顔を零す人なのだ。
それは身近になってみないとわからない面ではあるが、このギャップに何人の同僚がやられたことか、しかし総じて玉砕しているらしい。
僕も、きっとそんな玉砕者の一人になるのだろう。二人きり、ちょっと踏み入った話をしてみてもいいだろう。そして、この恋心とも憧れともつかない感情をきっぱり断ち切ろうと、回りくどく聞いてみた打算が入り混じった言葉だった。惚気を聞かされるのだろうか、あっさりと現状を語るのだろうかとほんの少し身構えていたら予想外な返答が返ってきた。
「え?まだどころか相手もいないわよ」
胸が高鳴る。いやいや、ここで急いては事を仕損じる。もしかしたら相手がいるけどケンカ中とかね!
「そうなんですか?適齢期だからそろそろそんな話が聞けるのではと思ってましたよ。彼氏さんとか…い、いないんですか?」
「いないってば。…でも、好きな人はいるかな」
「ええ!?」
驚愕の事実だ。すきなひと…すきなひと…社内の誰かかな。あ、もしかして隣の課のイケメン?そういえば最近何かと話してるのみた事あるかも。
「…社内の、ヒト、ですか?」
「ヒミツよ?そうね、社内ね。でも、全然振り向いてくれそうに無いの」
こんな魅力的な彼女に想われている幸運なヤローはどこのドイツだ!?嫉妬と羨望が入り混じりつつも相手をドキドキリサーチする。
「へぇー、どんなヤツなんですか?」
「鈍感なヒト。本人は気づいて無いけどほかの人は気づいてるんじゃないかしら」
彼女に入れて貰ったコーヒーを吹き出しそうになった。き、気づいているヤツがいるだと!?恋愛脳のあの女子か!?それとも噂好きのアノ男か!?なんで僕に教えてくれなかったんだ!前の飲み会の時ポロっと相談したのに!
「眼中に無いってことなのかもしれないけどね。河野くんは彼女いるの?」
「いないですよー。絶賛募集中です!」
「そう。気になる子はいるの?」
「えーっと、今の所は…とくには…」
目の前の貴方です、と言えるくらいの豪胆なメンタルが欲しい。
好きな人がいる状態で告白したって玉砕確定だしさらに自分に鞭を打つのは避けたい。
正直好きな人がいる発言でテンションはだだ下がりなのだが、ここはそんな空気になる場面じゃないだろう。精一杯の明るさで濁した言葉をごまかそうとする。
「いい人いたら紹介してくださいネ!いやーしかし高橋女史なら強気にアピールすればその鈍感なヒトもオチるんじゃないですかね!高橋女史は仕事じゃ厳しいけどそれ以外はすげー気がきくし彼氏になるやつが羨ましいくらいですし!」
言い逃げのようにコーヒーのおかわりを入れに席を立とうとすると、目の前に高橋女史が立ちふさがっていた。
手に持っていたカップは奪われ、再びデスク上に置かれる。
「そうね…強気にアピールしたほうがいいのかもね」
そう独り言のようにつぶやく彼女の瞳は、すでに肉食獣のように貪欲で凶暴だった。
───時は戻り現在。
「まだ気付かないわけ?」
いやいやいやいや、ま、ままままままさか……。
混乱と性欲に飲まれそうでなかなか考えがまとまらない。目の前の視線から逃れるようにぎゅっと目を瞑ると、唇に柔らかいものが触れた。
弾かれるように目を開くと、瞳を閉じて唇を合わせる彼女がいた。唇が離れるとともにその
目も開かれ、また視線が交錯する。
「……わかった?」
余裕たっぷりに彼女が笑う。
すみません。完敗です。いや、初めから負けてましたけど。
少しでも一矢報いたくて、自分だって想ってることを伝えたくて。
「……す、好きです!!」
「うん、知ってた」
再び重なる唇が、貪欲なものになっていく。
正直覚悟なんて出来てない。あるのは好きだという気持ちだけ。
僕はこのまま彼女に食われてしまうのだろうか。
気がすむまで味見し終わったのか、荒い息と共に離れた唇が、耳元で囁く
「…さぁ、覚悟はいいかしら」