7.浮ついていたからこそ逆に冷静になって、佐久間信太郎は一つの疑問に至った。
「朝はパンでも大丈夫?」
「は、はい!」
信太郎がやたらとかしこまってしまっているのは、何も声の調子だけではない。椅子に座る姿勢はいつになく正しく、深く腰掛け、これ以上ないほどに背筋が伸び、握りこぶしは膝の上に置かれている。
そんながちがちに緊張している身体とは裏腹に心のほうに落ち着きなどあるはずもなく、そんな状態を引き起こしている張本人の麗地に自覚の見えないのも、信太郎にはもどかしかった。
信太郎もいまやパンツ一丁だったあられもない姿からスーツ姿になってはいるが、冷蔵庫をガサゴソと探している麗地は相変わらず裾の長いパジャマ姿のままだ。かがんだりすると裾からちらちらと白いパンツがのぞくのが、信太郎をドギマギさせていた。
身体的特徴が、レイチェルとほぼ同じなのも、信太郎の眼にはまぶしくうつった。普段はスーツに包まれていた胸がパジャマというものに変わるだけで、ここまでの破壊力を持つというのか。
「こ、ここに一人暮らしなんですね」
信太郎の自分でも知らないうちに敬語が出てしまう。
「ん~。そうだよ。田舎から出る時に警備のしっかりしてるマンションに住むっていうのが、お父さんの条件だったしね」
おっ、あった、と、麗地は冷蔵庫からバターを取り出してきて、信太郎の向かいの席に座った。テーブルの上に配膳されていた朝食のうち、こんがりと焼かれたトーストの一枚を手に取ると、バターを塗った。四枚切りの分厚いトーストをかじりながら、麗地が信太郎へ、
「食べないの?」
「い、いただきます」
そう促されて、改めて信太郎はテーブルの上を見渡した。トースト、ベーコンエッグにサラダ、コーンスープにミルク。デザートにはプリンまで置いてある。窓から差し込む朝日の光に映える、王道な朝食である。白いご飯に味噌汁が基本の信太郎の家では考えられない洋風な朝ごはんにどうにも面食らったが、麗地をまねるようにトーストにバターを塗ってかじり、モグモグと咀嚼していく。
「おいしい」
「焼いただけだけどね」
自嘲気味にいう麗地は、どこか気恥ずかしそうだった。
「それにしても、昨日は散々だったね」
ここまで洋風な朝食ながら、ベーコンエッグを取る道具は箸だった。信太郎も麗地にならい、同じように箸を使った。
「昨日、ですか?」
「覚えてない?」
信太郎の覚えている限りでは、ピッチャーになみなみとしたビールを飲んだのが最後だ。それ以降はまったく記憶がない。
「じゃあ、昨日の夜のことも、覚えてない?」
信太郎は、ミルクを噴き出した。
明らかに狼狽した信太郎をからかうように、麗地は意地の悪い笑顔で続ける。
「悲しいなぁ~。私無理やりベッドに押し倒されちゃったんだよ」
まったく、記憶がなかった。
信太郎は自分がいわゆる草食系男子だという自覚を持っていなかったし、そうであるはずがないと確信もしていた。だからといって酔いに任せて女性を手籠めにするほどの肉食系であるという自負も持っていない。
しかしながら、まったく記憶のない信太郎の言葉に、どのような説得力があろうか。
あまつさえパンツ一丁で、麗地のベッドに眠っていたのがつい先ほどのことであり、麗地もパジャマの上にパンツだけの姿だった。
誰かに現場を目撃されていれば、言い訳のしようもない状況だ。
「あの……」
だから、つとめて冷静に、
「責任、とります」
顔色を真っ青にし、冷や汗を流しながら、歯をカチカチと震わせ、のどの奥から絞り出した。
そんないっぱいいっぱいの信太郎の表情と言葉を受けて、麗地は会社にいる時の姿からは考えられないほど、底抜けの笑い声を上げた。
あっけにとられたのは信太郎である。自分が覚悟を決めたというのに、これはどういう料簡なのか。目の端に涙さえ溜めて、お腹を抱えるように笑う麗地にふつふつとした怒りすら覚え始めたころ、
「あ~、おっかしい」
笑い疲れたように、麗地が居直る。そして、
「嘘だよ嘘。な~んにもなかったよ。佐久間くん、ここ連れて来たらすぐ寝ちゃったし」
ドッと信太郎の全身から力が抜けた。
麗地が言うには、ピッチャーでビールをしこたま飲まされたあとにその場でダウンした信太郎は置いて、権田と他の社員は二次会へ向かってしまったのだという。家の近い麗地にすべての世話を押し付けてだ。
「すみません」
迷惑をかけたことを、素直に謝っておく。
「いいっていいって。私も部長たちについていくのはめんどくさかったしね。それにさ……」
ビンの底のような分厚いメガネの奥で、麗地は目を細めた。テーブルに頬杖をつくようにして、顔を信太郎に近づけて
「ちょっとは、期待してたりも、したんだよ」
「えっ……」
その言葉の意味は理解できたが、理解できたからこそ、信太郎は疑問に思ってしまう。
こうして、会社にいる時とはまた違った麗地の姿を見ることが出来て、一層、彼女に興味を持った自分がいるのも確かだ。あるいはこちらが本当の彼女なのかもしれない。あちらの世界のレイチェルにもよく似たその姿は、非常に魅力的と思えた。
「ぼくでも、よかったんですか?」
「ん~、ないしょ」
からかうようにはぐらかされて、結局その話はそこで終わってしまった。
麗地お手製の朝食をたいらげ、シワにならないようにと早々に脱がされていた昨日と同じスーツを身にまとう。ネクタイだけは面倒くさいのでしめなかった。
「いろいろお世話になりました」
玄関まで見送ってくれた麗地は、最後まで相変わらずの格好のままだった。
「いってらっしゃ~い」
「今日は会社休みですよ」
おたがいに冗談めかして、笑いあった。
玄関の扉を閉めるまで、手をひらひらと振る麗地の姿が、信太郎の脳裏に焼き付くようだった。
◇
「やけに機嫌がいいじゃねーか」
終始ニコニコとしている信太郎に、気味悪がって何も言えないでいた整備士の中で、声を上げたのはゴンドゥだ。
「えっ、そうですか?」
キッ、と表情を正すが、自然に頬が緩んでいく。信太郎も、自分自信ではどうしようもなかった。
「まあニヤケてんのは結構だけどよ。次の試合は頼むぞほんとに。ほれ練習場いくぞ」
どこか呆れ顔のゴンドゥに連れられ、信太郎も練習場へ向かう。
途中で、レイチェルとばったり出くわした。
レイチェルはゴンドゥに用があったようで、そのまま2人で話を始めてしまった。
信太郎は改めてレイチェルの容姿を確認してみて、それが麗地ミサキによく似ていることを理解した。メガネもしていないし、髪型もポニーテールではないが、麗地の素顔と瓜二つだ。
――これで権田部長に阿久津、麗地さんか。
知人によく似ている人間は、合計3人。
この世界がどんなものかよく分かってはいないが、少しだけ心の落ち着きどころを発見して、信太郎は嬉しく思った。
「おら、行くぞ」
いつの間にか話を終えていたゴンドゥが、足を止めていた信太郎へ催促した。
「頑張ってきなよ」
レイチェルが、信太郎の背中を強く押した。つんのめるほどの力だったが、今の信太郎には、何よりも心強いと感じることのできるエールだった。
さて、と白の元素機体を見上げた信太郎は、ゴンドゥのいう真の力≪元素解放≫への道を開くべく、今日も模擬戦を開始した。
その最中に、いまさらになって、疑問がわいてきた。
――流されるままにここまで来ちゃったけど、これって負けたらどうなるんだ?