1.意外にも冷静でいられる自分に、佐久間信太郎は驚きを得ることもなかった。
頑張ります
「で、今日の数字は?」
「ありません……」
そこから続く罵詈雑言で、佐久間信太郎の業務はいつも通り何の変わり映えもなく終わった。
残業を行い、会社から出るのが一番最後ともなると、夏だというのにすでにとっぷりと日も暮れて真っ暗だった。すでに帰宅ラッシュも終わり際の電車内はガラガラで、座る席には苦労しないのが唯一の救いだ。
疲労と心労の重なった鈍重な足取りで辿り着いた家は、両親もとっくに寝静まって、電気の一つも付いてはいない。
そっと錆びた家の門を開けると、小さな、それでいて耳障りな金属音が響いた。
「ワン♪」
その音に反応したのか、信太郎が小学生時分より飼っている、すでに老いた番犬のシロが喜びに満ちた声を上げた。
「ただいま、シロ」
声を返すと、かつて真っ白だった尻尾――いまは毛並も汚れ、どこか灰色がかっている――をふりふり、鎖の伸びる一杯まで、こちらへ元気よく駆け寄ってくる。
「よーしよしよし」
幼い頃より変わらないやり方でで信太郎がなでると、シロも小さかったあの時と同じように、気持ちよさそうに目を細めて、よりいっそう尻尾のふりを早くした。
「お前だけだよなぁ、俺のことを大事にしてくれるのは……」
ひとしきりなでた後、おやすみを言って別れ、風呂もそこそこに布団に倒れこんだ。信太郎は何を考えることもなく、そのまま深い深い眠りへ落ちていった。
◇
目を覚ますと、ひび割れた土壁の天井が視界に飛び込んできた。
何かがおかしい。
そう思ったのは、天井が見慣れた木目調の壁紙でなくなっていることも一つであったし、布団に寝たはずの自分が堅いベッドに寝転んでいることが一番の問題点だった。
――誘拐された、というわけでもないか。
不思議と冷静だったのは、すでに20代も半ばの自分をわざわざ誘拐するような酔狂な輩が存在するはずがないという確信があり、手足を縛ることもせず放置する間抜けな犯人がいるとも思えなかったからだ。
ゆっくりと上半身を起こすと、身体の節々が痛んだ。堅いベッドのせいだろうが、痛む身体をさするようにしてみると、自分の身体がいくらか筋肉質になっていることに気が付いた。
「なんだこれ……」
手のひらから始まり、腕、胴体と順を追っていくと、筋肉質なばかりか、ところどころに痛々しさすら覚える傷跡が多く残されていた。
「まるで俺じゃないみたいだ……」
ベッドから降り、改めて全身を確認した。
どこをどう見てもよれよれのスーツに身を包んでいた売れない営業マンの身体ではなかった。今、身に着けているのは素材も分からないぼろ布のような服とズボンだけだ。やたらとスース―するのはパンツを履かず、直接ズボンを履いているからに他ならない。
自分の容姿だけではない。周りを見ても信太郎の住み慣れた自室でないことは明白だった。先ほどまで寝ていた堅いベッド以外に家具のない土壁に囲まれた一室は、あたかも牢獄のようだった。といっても鉄格子があるわけでもなく、普通に出入り口となるドアはあったし、木製の戸で閉じられているが窓もある。
とりあえず外に出ようとドアノブに手をかけると、トントン、とノックの音が響いた。
「は、はい」
反射的に、信太郎は声を上げてしまった。
「起きたようだね」
ドアを開けて入ってきたのは、信太郎よりも頭二つほど小さな女性だった。
髪は薄汚れた手ぬぐいらしきものでポニーテールに乱暴に括られ、タンクトップにニッカポッカによく似たズボンという非常にラフな格好をしていた。意思の強さを感じさせる目つきとタンクトップを盛り上げる胸の大きさは、信太郎が今まで出会ってきた女性と比べ物にならなかった。
「気分はどう? 長旅で疲れたみたいだし、もう少し寝てる?」
馴れ馴れしさに面食らったが、何より信太郎には一番最初に確認せねばならないことがあった。
「あ、あの、ここ、どこですか……? 俺はいったい……」
女性は不思議そうに首をかしげた。
「どこって……ここは王都『オルナガルド』の……」
女性はそのまま窓へと歩いていき、戸を開いた。窓の外に広がっていたのはこの部屋の土壁と同じ材質と思しき大小さまざまな無数の家屋、そして――
「城下町『マーナポルト』。そしてコロッセウムに一番近い、この国の武力の最前線よ」
女性が指差したのは、その街の中でも一際目を引く巨大な建造物だ。この窓からだと壁があるようにしか見えないが、上空から見れば、それはすり鉢状のとてつもなく大きな円形闘技場だと、信太郎も気が付いただろう。
そしてこれから始まりゆく運命にも、あるいは多少なりの耐性を持てたのかもしれない。
だが今、信太郎はただただ目を丸くするばかりで、己が置かれた状況の把握に精いっぱいだった。
<続>