第三十九章 水龍神の化身
静かな森の中、魁人と那羅延が対峙していた。
風で落ち葉が舞い、木々がざわめいている。那羅延の持つ鎖が地面に引きずられて、ジャラジャラと音をならしている。ジリジリと右回りに動きながら、相手の出方を伺っていた。水鮫神を握る魁人の手は汗で湿っていた。自分の心臓の音がなぜか大きく聞こえ、他の音が小さく聞こえた。
その時、風を切る音がすると同時に、那羅延の持っていた鎖が魁人の右腕に巻きついた。全く気付かなかった。完全に魁人は那羅延のペースに飲まれていた。
「捕まえたぞ」
「グッ!」
鎖を解こうとする魁人だが、その瞬間に体が前方に思いっきり引っ張られた。その勢いを殺さず、那羅延の蹴りが魁人の体を捕らえる。蹴りをくらい吹き飛ぶ魁人の体を、また引っ張るとまた蹴りを浴びせた。
体勢を整える事が出来ず、魁人は何度も引っ張られ、蹴り飛ばされていた。
「どうした! さっき鉄球を砕いた様に俺を砕いてみろ!」
不気味に笑いながら引っ張られた魁人の顔面に膝蹴りを見舞った。
「グハッ……」
口から血を吐きながら、魁人は吹き飛び地面に倒れた。蹴りを何度もくらい、もう体が動かなかった。
疾風丸を抜こうとした由美に神谷がそっと言う。
「まだだ。由美」
「でも……」
「大丈夫だ。魁人を信じろ」
「……うん。分かった」
疾風丸の柄から、ゆっくり手を放し魁人を見守る事にした。
ゆっくりと立ち上がった魁人は唾を地面に吐いた。口の中が切れて、血が出ているのだろう。唾は真っ赤に染まっていた。
体が……足が……全身が重い。そんな事を思いながらも魁人は水鮫神をゆっくり構える。だが、那羅延がそう簡単に、水牙鮫を撃たせてくれる訳が無かった。
鎖を上に引くと、魁人の体が軽々と宙に浮いた。空中で身動きの取れない魁人を、振り回して地面に叩き付けた。地面が割れて魁人の体が瓦礫に埋もれた。
「フッ……。何て歯ごたえの無い」
「油断してると、喰われちまうぞ」
神谷は余裕をかましている那羅延に、そう言って笑みを浮かべていた。
「何を、言っている。奴は瓦礫の下で……!?」
そこまで言って、ようやく気付いた様だったが、すでに遅かった。鎖を引っ張ったが、その先に魁人の姿はなく、鎖を噛み砕いた後があった。
魁人を見失った事で、初めて自分が不利だと那羅延は悟った。
地面はいたる所が割れていて足場が悪く動き難く、夜中で視野が狭くなるため魁人を探せずにいた。
一方の魁人はまだ瓦礫の中に埋もれていた。先程地面に叩き付けられた際、右足を負傷して動く事が出来ないでいたのだ。
「痛ッ……」
激痛に表情を顰めるが、歯を食い縛りその痛みを我慢していた。
ジリジリと那羅延の足がすれる音がはっきりと聞こえていた。そのお陰で、どこに那羅延がいるのかはっきりと分かっていた。
「全部、神谷さんのせいだ……。あの人が挑発しなければ、こんな風にはならなかったのに……」
小声でぼやきながら魁人は神谷への怒りを募らせいた。魁人が神谷への怒りを募らせていると、急に外が騒がしくなった。魁人が見つからない事で那羅延が暴れだしているのだろう。
魁人の予測通り、那羅延は鎖で魁人の埋まっている瓦礫の山を殴っていた。瓦礫が崩れ更に魁人の体にのしかかってきた。流石に限界だった魁人は、痛い右足をかばいながら、瓦礫から這い出てきた。
「はぁ…はぁ…」
「見つけたぞ」
目が霞み体に力が入らなかった。那羅延が3体に見えた。実際、1体なのだろうが、ダメージの受けすぎで視点もあってなかった。残り体力からすると、水牙鮫を撃てるのは精々3回が限界だろう。
「そろそろ、危ないかな」
「どう……するの?」
「う〜ん。どうするかな?」
「私……行くね……」
小さく呟いた由美が一歩踏み出そうとした時、神谷が魁人に向って大きな声で叫んだ。
「魁人! あの封印は解禁だ! 思う存分使っていいぞ!」
「今更ですか……。それに、思う存分って……今の僕の体じゃあ、一発が限界だよ」
小さい声でそう言った魁人の声は、もちろん神谷には聞こえていなかった。アレって何って目で由美が神谷を見ていた。神谷は
「見てれば分かるさ」
と、言っていつもの様にタバコを口に銜え、白煙を撒き散らしていた。
魁人は水鮫神の刃の鮫の刻印に向って小さな声で唱える。
「清く穏やかな水は、全てを潤し癒しをあたえ、時に激しく全てを飲み込む。
この槍に封じられし悪しき鮫。目覚め我の刃と化せ!」
凄まじい程の蒼い光りが水鮫神の刃から放たれ、那羅延は右腕で目を覆った。神谷はサングラスを掛けて光りを遮り、由美は完全に目をとじていた。その光りの中で魁人の声が響き渡った。
「出でよ! 水龍神の化身・水鮫!」
大地に向って水鮫神の刃を突き刺す。蒼い光りはおさまり、代わりに地響きが起っていた。何が起るか全く予測が付かなかった。
「な…何が起っている!?」
那羅延は激しく揺れる地面に手をついて、体勢を立て直そうとしていた。魁人の足元からゆっくりと、蒼き鋭い眼光の水の鮫が出てきた。その歯は鋭く尖り、何でも噛み砕きそうだった。
「アレは……」
「アレは、水鮫だ。あの槍に封印されていたのを一時的に開放したんだ」
「そんな事……出来るの?」
「ああ。かなり体力は消耗するが、出来るには出来る。だが、奴を使うか、奴に使われるかは、持ち主の力で決まるんだがな」
「それじゃあ……」
「まぁ、魁人は大丈夫。多分」
「多分って……」
いい加減な神谷に由美が、ついに冷たい視線を送った。由美の冷たい視線は、他の人にやられるよりも冷たく、体中が凍え本気で落ち込む。
そんな時、澄み渡る低音の声が響いた。それが、水鮫の声だとすぐに分かった。
「俺の封印を解くとは、何の用だ」
「一暴れしてもらうよ……」
「そのボロボロの体で、俺を扱う事が出来るのか?」
「いや。今回は、君に全てを任す……。倒す敵は……」
ゆっくりと那羅延に指差す。水鮫は鋭い眼光で那羅延を見る。その瞬間、那羅延が一歩後退りすると、動きを止めた。澄み渡る低音の声が、少し笑いを含みながら言う。
「奴一人か……。だが、俺に任せていいのか?」
「あぁ、大丈夫だ。僕の体力も限界だから、早めに終わらせてくれ」
「良かろう」
水鮫の尾が激しくうねり、一瞬で那羅延の体にぶつかった。その肌に触れた瞬間に、那羅延の体からは真っ赤な、血飛沫が上がる。水鮫は素早い動きで、那羅延の体に何度も体当たりをして、血飛沫を上げさせた。
「ウァ……グッ……」
口から血を吐きながら、フラフラとしている那羅延。辺りには那羅延の血が飛び散っていた。
圧倒的な力を見せる水鮫に、由美と神谷はただただ感心するしかなかった。その時、か細い掠れた声で魁人が言った。
「も…もう……もたな…いぞ……」
「分かっている。これで、終わりだ」
水鮫はそう言うと、大きな口を開き那羅延を噛み砕いた。水鮫の透通る蒼い水の体が、真っ赤に染まった。と、同時に水鮫は弾け那羅延と一緒に消滅した。
力を使い果たした魁人は地面にゆっくりと腰を下ろした。大量の汗で体中びしょ濡れだ。
由美は破けた衣服をいつの間にか着替えて、魁人に駆け寄った。
「――大丈夫?」
「う…うん。一応ね……」
「ギリギリじゃねぇか」
笑いながらそう言う神谷に、魁人は薄らと殺意を覚えた。誰のせいで、こんな事になったと思っているのだ。そんな事を思ったが、それを叫ぶ力は残ってなく、激しい睡魔に襲われた。魁人はそのまま眠りについてしまった。
「寝ちゃった……」
「しかし、こんな場所じゃ寝れないよな」
「……そうですね」
二人はそう言って辺りを見回した。大量の木々が無造作に倒れ、地面は割れ、血腥かった。
とりあえず、国道と黒川の墓を簡単に作ってから、その場を移動する事にした。
すでに、朝日が顔をだし空は明るくなり始めていた。