第四話「魔法のフィッシュ・アンド・チップス」
五月三十一日午前十時。
伊豆諸島、鳥島西方海域。
イギリス東洋太平洋第二艦隊所属、魔法戦艦「ロドネー」艦橋。
艦長チャーチウッド大佐は、孫娘のアン・ベックウェルと並んで船窓に立ち、白波うねる海面を眺めおろしていた。
現在、伊豆諸島近辺は日米英の激戦が続く最前線である。この日、魔法戦艦ロドネーは哨戒のため、護衛の巡洋艦二隻とともに主戦場を離れ、西へと航走していた。
日本海軍の「晴嵐作戦」発動から、すでに丸一昼夜が経過している。
イギリス艦隊もその情報を受け取っていたが、敵艦隊の位置や進攻ルートの詳細までは把握できず、厳重な警戒態勢を布いて敵の来襲に備えていた。ロドネーの西方派遣は、その警戒強化措置の一環である。
「どうだねアン、友達とは仲良くやっておるかね」
パイプをくゆらせつつ、チャーチウッド艦長は八歳の孫をかえりみた。
「ええ、とっても仲良しよ」
アンは、ほがらかな笑顔で応える。一見、おさげ髪のよく似合う、ただ可憐なばかりの女の子だが、歴とした大英帝国海軍所属の魔女っ子である。戦功によって、英王室直々に「クリティカル・アン」という特別なコードネームを授かっており、英国内では抜群の人気と知名度を誇っている。
「お姉さまたちには、毎日お勉強を見てもらってるの。お茶のときは、わたしもお手伝いしてるわ。とっても上手だって、みんな褒めてくれるのよ」
「おお、そうかそうか。さすが、私の孫だ」
「でも、あんまりおじいちゃんと会えないから、やっぱりちょっと寂しいな。せっかく同じ戦艦に乗ってるのにね」
「まあ、そう言うな……私にも立場というものがある」
背後から靴音が響いた。
二人が振り向くと、副長クリスチアンセン中佐が電文を手に歩み寄ってくる。
「艦長、哨戒機から連絡です。本艦現在位置より北北西およそ七十マイル付近にレーダー反応あり、南下中の敵艦影と認む、と」
「なに? そんな方向から来るのか」
チャーチウッド艦長は軽く目をみはった。予想外のルートだったのである。
「で、敵の規模は」
「一隻です」
「……なに、単独航行だと。それは本当に敵艦なのかね」
「は。艦型を照合しましたところ、日本の魔法戦艦カワチ級に酷似しております」
「ふうむ。魔法戦艦が一隻だけ……か。ならば、おそらく陽動だな」
「いかがなさいますか」
「決まっておる、迎撃だ! それと、ガーランドに連絡しておけ。これは陽動と思われる、別方面より敵主力接近の可能性あり、より一層警戒すべし、とな」
「はっ!」
クリスチアンセン中佐は敬礼をほどこし、艦橋中央へと駆け戻っていった。
「おじいちゃん、戦うの?」
「一隻とはいえ魔法戦艦だ。放っておけば、どんな悪さをするかわかったもんではない。それに、ここで敵を見過ごしたとあっては、後々ガーランドの若造に文句を言われることにもなりかねん」
「それなら、わたしも出るよ」
アンは決然と告げる。
チャーチウッド艦長は「うむ、さすが私の孫だ」とうなずき、慈愛に満ちた眼差しで孫娘にほほえみかけた。
「だが、くれぐれも気をつけてな。危ないと思ったら、すぐ戻っておいで」
「うん、わかった!」
アンは、元気よく艦橋出入口へと走り出した。
同時刻、魔法戦艦いずみ艦橋。
「敵艦隊、針路を変えてこちらへ向かってきます」
レーダー手から報告がもたらされる。
湯山副司令が白髭を撫でながらつぶやいた。
「やはり、見逃してはくれんか。やるしかありませんなあ」
「やむをえん。相手の戦力を黙らせ、一気にここを突っ切るぞ」
塚口提督は指揮座から立ちあがり、号令を発した。
「全戦隊、第一級臨戦態勢! 空戦隊発進準備!」
有田少佐が、艦長席へ緊張した眼差しを向ける。
早苗は黙してうなずき、有田少佐に艦の指揮代行を委ねた。まだ早苗は戦闘指揮の手順を教わっていないため、今回は傍観せざるをえない。
「全艦、第一戦闘配備! 火器管制チェック、アンチマジックコーティング展開、空戦隊発艦準備」
有田少佐の指図とともに、アラームが響き、たちまち艦内各所に緊張がみなぎった。
どの通路にも、所定の配置へ急ぐ人々の慌しい靴音が飛び交いはじめる。
叱咤、ざわめき、雑然と沸きたつなか、五つの小さな人影が、床を蹴り、息せき切って通路を駆けてゆく。
「ほらハルカちゃん、急いで急いで」
「ふぇぇー、ちょっと待ってぇー」
「マリちゃん、前見て走んなさい! 転んじゃうから!」
「はーい」
口々に声をかけあいつつ、スタンバイフロアを目指してひた走る、五人の魔女っ子たち。
「急がないとー」
「もう少しよ」
「にゃー」
すでにスタンバイフロアの鉄扉は開け放たれている。
五人は勢い込んで、続々と出入口へ駆け込んだ。四方の壁面に設置された赤色灯の明滅が子供たちを出迎える。
「あーっ、やっと着いた……」
美佳は大きく息をつき、周囲を見回した。
ここは魔女っ子だけが入ることを許される秘密の空間である。
古来、魔女っ子にとって、変身や武装の瞬間を一般人に目撃されるのは重大なタブーとされてきた。それによって魔力が減衰したり、あるいは思わぬ副作用が生じたりと、様々なトラブルが発生したのである。なぜそうなるのか、根本的原因はいまだ不明だが、そういう事情から、いわゆる魔法戦艦には必ず魔女っ子専用の特殊な更衣施設が設置されるようになった。これがスタンバイフロアという区画で、近年はエレベーターリフトとの兼用構造が主流になっている。
「さて、はじめましょうか」
祐美はポケットから銀色のブレスレットを取り出した。祐美に魔法の力を与える「コズミック・スター」である。
皆それぞれ、必要な道具を手に、変身、武装のための秘密の呪文をささやきはじめた。
――祐美の手のなかで、コズミック・スターがまばゆく煌きだす。
そっと唇をつけ、右腕にするりとはめれば、たちまち蒼い光が拡がり、祐美の全身を包み込んだ。
ほどなく、祐美の髪はサファイアの光沢あふれる蒼色と変じ、顔つき身体つきも大人っぽく、優美にしなやかに成長していた。服装も典雅華麗な黒のロングドレスへと変化し、各所に散りばめられた銀のスパンコールがさながら星屑のごとく輝いている。
「魔法の閃光ユミ」変身後の姿である。
――遥が右手を高々とさし上げる。
人差し指に輝く魔法の指輪「ドラウプニル」が黄金の光を天へと噴き上げ、空中に魔力を拡散させた。
巻き上げた金粉がふりそそぐように、おびただしい魔法の輝きが舞い降りて、遥の外見に変化をもたらしはじめる。
背丈はみるみる伸びて成人のそれへ達し、か細い手足はしなやかに逞しく、四肢がっしりと力感あふれ、白銀のボディスーツが、引き締まった胴体を包み込む。その上からかぶさるように、桜色のジャケットが上体を覆い、ボトムにも同色のフレアスカートがはためく。銀のナックルが光をまとって輝いた。豪腕が風を裂き、双眸煌々と闘志に燃える。
「魔法の烈風ハルカ」変身後の姿である。
「……いくよ、荒光」
――鈴が、肩にしがみついている黒猫へそっと語りかける。
「にゃー」
と応えて、黒い子猫は床へ降り立ち、四肢を張って、力を溜めはじめた。
不意に、小さな身体がかすかに震えたかと思うと、背中に、ぼうっと青白い炎が生じ、子猫の全身を包んだ。ひと声鳴いて、ふわりと宙へ浮かびあがる。
青い炎のなか、鈴の眼前にて、子猫の姿はいつしか、ひと振りの短刀へと変じていた。
鈴が無造作に右手を突き出し、短刀の柄を握り締める。途端、周囲に旋風が巻き起こり、鈴の着衣は瞬く間に切り裂かれて、一糸まとわぬ素裸となった。
短刀の刀身より青い炎が四方へ噴き出し、燃え拡がって、鈴の全身を覆い尽くす。
肌を焼く青い業火のなか、鈴は、苦悶に顔を歪めながら、一歩前へと、力強く足を踏み出した。
炎はたちまち、渦を巻いて消え去った。
静寂が戻ったとき、すでに鈴の身は、白小袖に黒袴、白鉢巻に白足袋の「合戦装束」をまとい終えている。
黒い瞳は戦意凛々と燃えて、その右手には長さ三尺の業刀「荒光」が、鞘ごとしっかと握りしめられていた。
「魔法の剣豪リン」の武装した姿である。
――真里の胸に揺れる魔法のペンダント「フラワー・メダリオン」が七色に輝き始める。
真里は「でっておいでー!」と声かけつつ、フラワー・メダリオンを両手で軽く二度叩いた。
それに呼応するように、まばゆい光とともに、小さな魔法のジョウロ「レインボースコール」が空中へ飛び出してくる。
軽やかにステップ踏みつつ、えいっ、と右手でその柄を掴むと、はるか上天から無数の花びらが降り注ぎ、花吹雪となって真里の全身を包んだ。
花の嵐が渦巻くなかで、真里の着衣のサンドレスが、さながら大輪の薔薇が咲くように、ふわりふわりとフリルを開いて光を放ち、たちまちのうち、七彩の光輝をまとう可憐なショートドレスへと変貌した。
花びらの渦は、ぱっと散り拡がり、真里の眼前へと収束してゆく。真里が左手をつと伸ばすと、閃光がほとばしり、花びらは霞のようにかき消えた。
かわってその手には、虹の彩りまばゆい魔法のホウキ「レインボープルーム」が握られている。
右手にジョウロ、左手にホウキ、髪には大きな赤いリボンが花と咲く。
「魔法の精霊マリ」変身後の姿である。
――かつて早苗から美佳へと贈られた、赤いドラゴンのヌイグルミ、プロン。
美佳が、その胴を両手に掴んで天に高々とさし上げると、プロンの背に光の翼が生じた。
まるで生きている猛禽のように翼をはばたかせて、美佳の手を離れ、宙へと舞い上がる。
小さなヌイグルミは、やがて猛々しき飛竜へと姿を変えて、轟く雄叫びをあげ、ふと顎を開くや、眼下へ立つ美佳めがけ、輝く火球を噴き出した。
美佳が右腕をあげ、迫る炎の塊を、その掌に受け止める。
炎は瞬時に消し飛び、かわってその手には、魔法の杖「プリンセス・バーナー」が握りしめられていた。
同時に、美佳の黒髪が、みるみる鮮やかな紅蓮へと染まってゆく。
飛竜は雷鳴のごとくいななき、全身を赤光に包んで、美佳の周囲を飛び回りはじめた。
閃光が炸裂し、爆炎が巻きあがる。
半瞬――。
激しい火焔は四方へ散って、消え去った。
あとに立つのは、見るも鮮烈な紅衣紅髪、その双眸まで焦熱に燃ゆる炎の化身。
額に輝く金のティアラ。右手には飛竜の魔力を秘めた短杖プリンセス・バーナー。
「魔法の熾天使ミカ」変身後の姿である。
――それぞれに武装、変身を終えた五人の魔女っ子たちは、互いに眼差しをかわしあった。
「相手は、どんな子たちなのかな」
美佳がつぶやく。
いまや、うら若き妙齢の美女となった祐美が、ほほえみながら応えた。
「イギリスの子たちね。偵察規模なら、そんなに数は多くないと思うけど」
「へえー。ねえねえユミちゃん、イギリスの子って、つよい?」
真里が横あいから声をかけるのへ、やはり大人の姿に成長している遥が、拳を握りしめ、不敵に言い放つ。
「なぁに。どんな奴らだろうと、アタシらにかなうわけないじゃん。タコ殴りにしてやんぜ!」
大昔の不良少女を思わせる強気ぶりである。
「ハルカちゃん、性格すごい変わってる……」
美佳が苦笑を浮かべる。
遥は豪快に笑った。
「あっはっは。いやぁ、なんでか、変身すると、こうなっちまうんだ。ま、細かいことは気にすんなって。どんな敵でも、ぶっとばしてやるからさ」
「……そうね。立ちはだかる敵は、ただ斬り捨てるだけ。どうせ殺しても死なないし」
鈴が淡々と物騒な台詞を口走る。
艦内放送が流れた。
「発進口、展開」
五人は一斉に顔をあげた。かすかな機械の唸りとともに、天井が割れ、左右に開いて収納されてゆく。隙間から、快晴の青空が覗きはじめた。
続けて放送が響く。
「リフトアップ、スタート」
五人を乗せた鋼の床が、甲板へ向けてせり上がりはじめた。新造艦ゆえか、かなりの上昇速度の割に騒音も振動もなく、挙動も至極なめらかである。
ほどなくリフトアップが完了し、いずみの前部甲板上に、五人の魔女っ子たちが颯爽と姿をあらわした。
南国の太陽は天高く、強烈な光と熱を叩きつけてくる。
真里が、潮風に髪をなびかせながらレインボープルームにまたがった。とくにそうせずとも普通に飛べるが、「こうしたほうが、魔女っぽくてかわいいからー」と本人は言う。
全員、それぞれ魔力の輝きをその身に帯びて、表情をひきしめる。
「みんな、行くわよ!」
祐美の掛け声に、「おーっ!」と唱和しつつ、はるか南の空めざして、五人は一斉に甲板から飛びたっていった。
天気晴朗、視界良好。この条件ならば、高度を取り、太陽を背に突進すれば、先制も易し――。
出撃前、塚口提督から授けられた策である。
真里は対艦攻撃へ向かうべく、低高度から別行動に入る。他の四人はいったん高度五千メートルの上空まで翔けあがり、敵艦隊の迫る方角めがけて、降下突撃を開始した。
空を裂き、音速を超え、彗星のごとく駆ける四つの光を、はるか前下方から、数条のレーザー光が出迎える。英巡洋艦二隻による対空砲火である。
美佳が、ふと前方を眺め渡せば、鏡を打ち砕いたような煌きとともに、十名ほどの「敵」が群れをなし、闘志もあらわに身構えている。
美佳たち四人は目線をかわしあい、散開して、待ちうける敵勢の陣列へと躍りかかった。
英艦隊の魔女っ子らもまた一斉に武器をつがえて迎え撃つ。
華々しい極彩色の輝きが空中に炸裂した。
――鈴の一刀が、見えざる魔法の防壁を斬り裂き、敵ひとりを袈裟がけに叩き落とす。
遥の右拳が、前面に立ちはだかる敵を一撃に殴り倒し、吹きとばした。
その横ざまから、騎士甲冑をまとう英魔女っ子が迫り来て、剣を振り上げ、遥に斬りかからんとする。
祐美の操る光の槍が音もなく飛んで、敵の腹を撃ち叩く。そこへ美佳が紅蓮に燃える火焔の束を叩き込む。
騎士少女は短い驚声をあげ、もんどりうって海面へと落下していった。
美佳は息つく間もなくプリンセス・バーナーをかざし、念を集めた。
先端のルビーが妖しく輝いたと思うと、火球が生じて、急激に膨れあがってゆく。
「行くよ!」
気迫一閃、魔杖が唸り、いまや直径十メートルという巨大な火の玉が、轟音とともに敵集団の頭上へ落ちかかった。
爆炎があがる。
たちまち二人の敵がまとめて灼熱の渦に飲み込まれ、悲鳴絶叫おびただしく、そろって墜落してゆく。
「――あらあら、かわいそうに。全治二日ってとこかしら」
祐美が呆れたように呟いた。
「少しは加減して。私たちまで巻き込まれるわ」
鈴が、そっと美佳に苦情を述べる。
「あー……ごめん、リンちゃん。気をつけるね」
美佳は謝罪し、苦笑を浮かべた。
前方にはなお四人の敵が残って行手を阻んでいた。美佳の火炎の威力によほど驚いたのか、防御姿勢を取ったまま、身動きできぬ様子である。
「なーにビビってんだよ。さっさとかかってきな」
遥が挑発すると、各人、ようやく覚悟を決めたらしく、みな気丈な面持ちで武器を構えはじめた。
「ここからが本番ね」
言いつつ、鈴は荒光を鞘に収め、居合いの型をとった。
祐美がそっと呪文をささやく。右腕のコズミック・スターを天へかざすと、祐美の周囲に十数本もの光の槍が一斉に出現し、まばゆい煌きを放った。
鈴と遥が前方へ飛び込んでゆく。
美佳がその後に続いてプリンセス・バーナーをかざした。
祐美が右腕を振り下ろす。
十幾条の光槍が前方へ飛翔し、敵勢を激しく打ち叩く。
そこへ、美佳の爆炎、遥の鉄拳、鈴の居合いが、続けざまに炸裂する。
瞬時に、二人の敵魔女っ子が弾き飛ばされ、海面へと消えていった。
それでもなお、残った敵が、果然と反撃を仕掛けてくる。
黒衣をまとう英魔女っ子が、手にした錫杖を振りかざした。突如周囲に冷気が漂い、風を巻き、もっとも手近の位置にいる鈴をめがけ、一陣の猛吹雪が襲いかかる。
肌も凍てつく氷塵の渦に晒されながら、鈴はまるで通じぬというふうに、冷然、ゆっくりと振り向きざま、荒光を両手に掲げ、鋭く振りおろした。
真空の刃が凍気を裂いて、黒衣の少女の肩を打つ。
少女は思わぬ衝撃にのけぞった。
どうにか態勢を立て直したとき、すでに鈴は間合いを詰めている。
閃刃、横薙ぎに胴を打ちすえる。
黒衣の少女は声もなく墜落していった。
常人なら一刀両断となりかねないほど強烈な斬撃も、魔女っ子にとっては、せいぜい打撲傷程度。「殺しても死なない」とはそういうことであった。
鈴が荒光を鞘に収めたとき、最後の敵一人、白いマントを羽織る少女が、わずかに距離を取り、すばやく弓矢をつがえて、鈴へ狙いを定めていた。矢じりに青白い炎が宿っている。
魔法の矢が、鈴めがけて放たれ――横あいから遥が、鈴をかばうように立ちはだかって、手刀一叩、事もなげに、飛来する矢をへし折った。
遥はそのまま敵めがけ突き進み、右脚をぐるりと回して、白マント少女の脇腹へ一撃。さらに身をひねって左脚を突き出し、少女を彼方へ蹴りとばした。
「パンチだけじゃねーんだぜ」
遥は、左脚をぽんと叩いて得意満面、白い歯をのぞかせた。
「次は母艦ね。まかせて」
裕美が右手を振り上げると、空中、新たに十数本の光の槍が輝き生じた。
さっと腕を振りおろす。はるか前方遠く、豆粒のように浮かぶ敵艦一隻をめがけ、光の槍が流星群のごとく飛ぶ。
ほどなく流星は目標点へと収束し、そこから黒煙がたちのぼりはじめた。
「うまく当てられたみたいね」
裕美は満足げにつぶやいた。
裕美の放った光の槍は、英国側の指揮艦たる魔法戦艦ロドネーの側面から、機関部のみを正確に撃ち貫いて、航行能力を奪ったのである。これでいずみが敵艦の追撃を受ける恐れはなくなった。
「……これで終わり?」
鈴が尋ねる。
「いや、もう一人いたはずだぜ。アタシらがここまで来る前に、敵の本隊から離れてった奴がいる。たぶん、マリを追っていったんじゃねえか」
「え、それなら急がないと。あの子ひとりじゃ危ないわ」
裕美が少々焦り気味につぶやく。遥が拳を握りしめながら応えた。
「よし。んじゃ、とっとと行って、ぶっ潰すか」
「潰す必要はないのよ。状況を教えてあげれば、素直に母艦に戻るでしょう」
「……素直に説得に応じればね」
鈴がぽそりと補足する。
美佳が表情をあらため、呼びかけた。
「とにかく、急ごう。早くマリちゃんと合流しなきゃ」
四人はうなずきあい、向きを変え、一斉に降下を開始した。
――その頃、海面上。
英巡洋艦サフォーク、コーンウォールの二隻は、ただひとりの魔女っ子の攻撃によって、瀕死の様相を呈していた。
「こんなふざけたやり方があるか! これは我々への侮辱だ!」
コーンウォール艦橋にて、艦長ベンゲル中佐が叫んだ。
ホウキにまたがった少女が悠々と警戒ラインへ侵入し、無邪気に笑いながら艦上空を飛び回り、手にしたジョウロから虹色のシャワーを降り注がせるや、突如として、主砲、副砲、高角砲などの火器が、ヒマワリの群生に変化してしまったのである。
いまや、甲板上そこかしこ、無数の鮮やかな大輪の花々がうららかに揺れて、勤務する水兵らをうろたえさせていた。
ミサイル群はタンポポ畑と化し、機関砲座には赤白黄のチューリップが妍を競って咲き誇っている。影響は甲板上にとどまらず、機関室内の水素エンジンまでもが巨大な藁束と化して、二艦は、その推進力を完全に喪失していた。
「だめです、もはや航行不能です」
副官の報告をうけ、ベンゲル中佐は「小悪魔め!」と、こみ上げる怒気を吐き出しつつ、空を見上げた。
ホウキにまたがった小悪魔――こと真里は、なお二艦の付近にとどまり、状況を確認していた。
「えーっとぉ、こっちは止まったし、あっちも止まったから……」
有人艦船はこれを撃沈すべからず、とは淡路島条約の戦時規定である。
対艦攻撃は無力化までにとどめる、というのが現代の海戦における約束事であった。
「もう動けないみたいだし、だいじょーぶだよね。そろそろ、みんなのところ行こっかなぁ」
真里は、レインボープルームを操り、上昇をはじめた。
高度およそ千メートル付近。前方遠く、なにやら光るものあり、目をこらせば、小さな銀塊のような物体が、淡い輝きをまとい、風を切ってこちらへ飛来しつつある。
「ひゃッ!」
真里は思わず首をすくめた。
小さな物体は間一髪、真里の頭上をかすめ去った。
「な、なに、いまの?」
真里が、おそるおそる顔をあげると、視界のうちに、彼方より次第に近寄ってくる人影がある。
見れば、真里とほぼ同年齢くらいの小柄な少女で、ピンクと白のエプロンドレスに身を飾り、細い両脚には白タイツ、赤い靴。おさげの金髪に赤いリボンと、まるで童話からそのまま抜け出てきたような、ファンシー気分横溢のいでたちであった。
その手には小さなパチンコを携え、いままさに、新たな弾丸をつがえて、真里に狙いを定めている様子である。
「え? ――きゃんっ!」
魔力を帯びた鋼の玉が驚くべき速度で飛んでくる。
真里はあわてて身をよじり、またも危ういところで回避に成功した。
「こらーっ、よけるなーっ!」
金髪の少女が咎めるように声をかけてくる。
「そ、そんなこと言われてもー」
真里が困惑顔で応えると、金髪の少女、すなわち大英帝国海軍所属の魔女っ子アン・ベックウェルは、なお接近しつつ、大声をはりあげて宣言した。
「このコメット・スリンガーと、クリティカル・アンの名にかけて! おじいちゃんの船には、ゼッタイ近づかせないんだから!」
「……おじいちゃん?」
「そうよッ、カクゴなさい!」
言いざま、アンは再びその手のパチンコ――コメット・スリンガーというらしい――を引いて、真里にさし向けてくる。
「うー、どうしよう。ここからじゃ……」
真里は、ちょっと思案顔を浮かべていたが、やがてレインボープルームをひるがえし、急上昇をはかった。
真里のレインボースコールは、その形状ゆえ、相手より上空に占位しなければ効果を発揮できないのである。
「逃がさないよーっ、連続攻撃ー!」
アンは、乱れ撃ちといわんばかり、雨あられと鋼弾を放ってくる。見ためはともかく、その一発ごとに非常に強い魔力が込められており、当たれば真里といえど無事には済みそうもなかった。
「わっ、あっ、や、やめてってばー」
鋼弾は、鋭い軌跡を描いて、間断なく真里を狙い続ける。
いまや真里は身をかわすのに精一杯で、上昇する隙も見い出せず、進退窮まってしまった。
「それーっ、まだまだっ!」
アンは真里の都合などお構いなく、容赦なく打ち込み続けてくる。
狙いは次第に精度を増して、とうとう一弾が、真里の眉間めがけ、まさに直撃せんとする、その刹那。
白銀の光の槍が上空より降ってきて、真里の眼前迫る弾丸を撃ち抜き、砕いた。
「えっ……なに?」
アンは、つい手を止めて、頭上を見あげた。
真里も、つられたように、きょとんと顔をあげる。
頭上十五メートルほど離れた空中に、祐美、美佳、遥、鈴の四人が並んで、二人を見おろしていた。祐美の右腕にコズミック・スターがまばゆく輝いている。
「ユミちゃん! みんなーっ!」
真里はたちまち嬉声をあげ、笑顔で両手を振った。
「間に合ってよかった……」
真里の無事を確認し、祐美はほっとした様子で呟いた。
「そこの子。戦いは終わったわ。あなたたちの負けよ。もう母艦に戻りなさい」
鈴が冷静な声で告げる。
アンは不審げな顔つきをして、きょときょと周囲を見回した。
やがて一帯、味方の影すら見あたらず――という現状を把握するや、勃然、怒りもあらわに喚きはじめる。
「あなたたち! お姉さまたちに、いったい何したのっ!」
「何……って?」
祐美が、やや気圧された態で訊き返す。
「あなたたち、なにか、ヒキョウな手を使ったんでしょう! そうでなきゃ、お姉さまたちが負けるわけないもん!」
「え、そんなこと、何も……」
祐美は返答に窮した。
かわって美佳が答える。
「あたしたち、おたがい、正々堂々と戦ったよ。あとで、そのお姉さんたちに聞いてみれば、すぐにわかるよ」
「ウソだっ!」
「嘘じゃねーよ」
遥が、少々苛立った様子で言う。
「テメェらの母艦も、さっきエンジンぶっ壊して停止させといた。もう決着はついてんだよ」
「う、うそ……」
「嘘じゃねえつってんだろ! ここでグダグダ言ってる暇があんなら、さっさと戻って仲間の救助の手伝いをしろよ。それとも、ここでアタシら全員とやりあうってのか? ああ?」
そう威嚇する声にも表情にも、不良少女を通り越して、ギャングの姐御とでもいうような凄みと風格が滲み出している。
「うう……」
アンは言葉の内容より、むしろ遥の剣幕に怖れをなしたようで、目に涙をためて、いまにも泣き出しそうな顔つきになった。
「ふえぇ……」
「あー、ハルカちゃん、ダメだよ泣かしちゃー」
真里があわててレインボープルームをアンのそばへ寄せ、そっとささやきかけた。
「泣かないで。えっと……ほら、これ、あげるから。ね?」
ポケットからキャンディを一粒取り出し、示してみせる。
「う……い、いらないもん」
「すっごくおいしいよ? ちょっとすっぱくて、あまーいの」
「……あまいの?」
「うん。あたしの大好物。わけてあげるっ」
真里は、花のような笑顔で、丁寧に包装されたキャンディを手に乗せ、さしだした。
アンは少し戸惑う素振りを見せたが、やがて、指先でこわごわとキャンディをつまみあげた。
「ね、食べてみて」
うながされて、包装を解き、桜色のキャンディを口に含む。
数秒の沈黙。
真里をはじめ、場の全員が成り行きを注視するなかで、アンの頬に、ふと、薄い朱がさした。
「……チェリーの、味」
小さな唇が、かすかにほころぶ。
「えへへ、せーかい。おいしいでしょ」
「うん、おいしい。ありがとう」
ようやく、アンは微笑んだ。
「ね、お名前、教えて。あたし、マリっていうんだよ」
「アン。アン・ベックウェルよ」
「アンちゃんかー。かわいい名前だねー」
「そ、そんなこと」
照れくさそうに、アンはうつむいた。
「マリ……ちゃん、あの、さっきは……ごめんね……」
「戦いだもん、しかたないよ。でも、もう終わったから、いまからお友達だよ」
「お友達?」
「そうだよ。だって、戦わなくていいんなら、仲良くなれるでしょ。ね?」
真里の笑顔には、一点の曇りも欺瞞もない。太陽そのもののような、まっすぐな明るさだけがあった。
アンはまぶしそうに目をほそめ、素直にうなずいた。
「そうね、その通りね」
真里が、ぱっと手をさしのべる。
「お友達になろう? アンちゃん」
「――うん!」
二人はしっかと手を取り合い、ほがらかに笑いあった。
「マリちゃんの得意技……はじめて見たけど、想像以上ね……」
やや離れた位置から様子を見守っていた祐美が、呆れ顔でつぶやく。
「ああ。アタシも噂にゃ聞いてたけど、これほどとは……」
遥が応える。
「力ずくじゃなくて、心を攻める。相手の心を撃墜する。そんで、どんな敵でもオトモダチにしちまう、ってな」
「聞いた話じゃ、以前、中国海軍との戦いで散々あれをやって、おかげで中国海軍の魔法少女のうち三分の一近くが戦意喪失、自主退役しちゃったって話よ。マリちゃんとは戦えない、って」
鈴がなにやら深刻げに眉をひそめる。
「……あの子の凄いところは、それを計算じゃなく、天然でやってることね。誰も勝てないわ、あの子には」
真里とアンはすっかり打ち解けた様子で、なにかお互い語りあっている。祐美たちは高度を落とし、二人のもとへ近寄った。
「その、悪かったな。つい怒鳴っちまって」
遥が、少々ばつが悪そうな様子で、アンに声をかけた。
アンは、ぷるぷると首を振った。
「こちらこそ、ヒキョウとか言って、みなさん、ごめんなさい」
「そんなの、気にしないでいいよ」
美佳が笑って言う。
「それより、そろそろ母艦に戻ったほうがいいよ。きっとあなたのこと、心配してるよ」
「あの、お姉さまたちは……」
「大丈夫、みんな大した怪我はないはずよ」
祐美がおだやかに告げた。
「行って、早めに救助してあげて。私達はまだ作戦の途中で、もう戻らないといけないから、あとをお願いするわね」
そう諭すと、アンは、少しうつむきながらも素直にうなずいた。
「アンちゃん、ちょっとだけ待って」
真里が引き止める。
「んー、と。あった、これこれ」
真里は、ポケットからマッチ箱大の携帯端末を取り出した。
「アドレス交換、しよ!」
笑顔で提案する。
アンは「うん、よろこんで!」と、嬉しそうに応じた。
二人が、端末を突きあわせ、同時に認証ボタンを押す。
軽快な電子音とともにメールアドレスの交換が行われた。
「これで、いつでも会えるね」
アンは、端末をそっと撫でて、大切そうにポケットへしまい込んだ。
「うん、何かあったら、メールちょうだいね」
「マリちゃんもね。約束だよ」
二人は、ひとしきり微笑みあった。
アンは最後に、一同へ向かって、ぺこりと頭を下げ、エプロンドレスをひるがえして、ゆっくり立ち去っていった。
「えへへ、またお友達、ふえちゃった」
真里は上機嫌で端末を握りしめた。
「撃墜記録、更新ね……」
鈴がぽそりと呟く。
「え、リンちゃん、なに?」
「なんにも」
美佳が横あいから声をかける。
「あたしたちも、もう帰らなきゃ。サナお姉ちゃんもきっと心配してるだろうし」
「ま、そうだな。ハラも減ってきたし」
「今日のお昼ごはん、なにかなー?」
「帰ってからのお楽しみよ。さ、行きましょ」
五人は一群となって、いずみの航走する北北西へと引き返しはじめた。
母艦ロドネー上空まで、あと十数マイル。
アンは帰途を急ぎつつも、繰り返し、エプロンのポケットの上から端末に触れて、そのたび心底嬉しそうに小さな口もとをほころばせた。
「おじいちゃんに報告しなくっちゃ。新しいお友達ができた、って」
天駆けるさまも浮き浮きと楽しげに、アンは南風をうけながら飛び続ける。
――不意に、衝撃が来た。
直上の空から、太い光の束が降り注ぎ、アンの背を打って海面へ叩き落とした。
アンは、何事と覚る間もなく気を失い、うち捨てられた人形のように、波間へ漂いはじめた。
はるかな高みから、ゆるゆると、ひとつの人影が海面上へ舞い降りる。
しなやかな長身を純白まばゆき長衣に包み、風になびく黄金の髪、右手には両刃の騎士剣が、魔力の残滓をまとわせ銀色に輝いている。
碧き双眸は、熱もなく感情もなく、白浪に翻弄されるアンの姿を、ただ冷ややかに眺めおろしていた。
アメリカ海軍太平洋第七艦隊、第二十九任務部隊所属――。
「ユタの剣姫」メル・トケイヤー、その人である。
第七魔法戦隊と英艦隊との小戦闘は、時間とすれば、わずか三十分ほど。
部隊としての初陣を遺漏なき完勝で飾って、いずみの魔女っ子たちは意気高らかに母艦へと帰還してきた。
艦橋にその報がもたらされると、早苗はようやく緊張を解き、安堵の吐息をついた。
自身、初の戦場経験で、当然その心理的圧迫や、万一という事態への怖れなどもあったが、それ以上に子供たちが怪我でもしないかと、内心気が気でなかったのである。
やがて、廊下から複数の靴音が響き、あれよという間もなく、五人の少女が元気に艦橋へ駆け込んできた。
皆すでに変身や武装は解いており、普段の姿に戻っている。
「ばーんっ!」
そのまま勢いよく、美佳が早苗の胸にとびこんでくる。
「おかえり、美佳ちゃん、みんな」
「へへへ、勝ったよ、あたしたち」
「うん。よく頑張ったね。怪我とかしてない?」
「ううん、全然だいじょうぶ」
嬉しそうに報告する美佳の髪を、早苗はそっと撫でてやった。
「あ、ミカちゃん、なんかずるい」
「にゃー」
「そうだよー、あたしたちもガンバったのに、艦長さんひとりじめ」
「あたしもなでなでしてもらうー」
「ハルカちゃん、艦長さん困っちゃうでしょ、そんなくっつかないの」
と、他の四人も早苗をとり囲んで口々に騒ぎたて、まことにかしましい。
ここで有田少佐が咳払いをひとつ。
「勝って嬉しいのはわかりますが、手順というものがあります。まず、それを踏まえてくださいね」
いずみの魔女っ子たちは現在、第七魔法戦隊司令部の指揮下にある。帰還後は、まず戦隊司令のもとへ報告に向かうのが、一応の筋というものであった。
「そうね。みんな、提督のところへ行ってあげて」
早苗が促すと、五人はまだ何やかやとさえずりながら、連れだって艦橋後部へ歩いていった。
「ずいぶん懐かれてますね。初対面から、まだ日も浅いですのに」
有田少佐が感心したように述べる。
「そうねえ。なんでかな、何も特別なことはしてないんだけど」
早苗は小首をかしげつつも、まんざらでもない面持ちである。
懐かれて単純に嬉しいというのもあるが、もとより親子同然の美佳はさておき、早苗はこのとき、他の子供たちにも、不思議な相性の良さを感じていた。
「なに、簡単なことですよ」
草川主計長が背後から歩み寄りつつ、声をかけてきた。
「子供ってのはね、うまいメシを食わせてくれる人には、素直に懐くもんです」
「そ、そういうもんですか?」
「そうですとも。で、いまちょうど昼食分の仕入れをやっとりましてな。こいつがそのリストです」
草川主計長は、薄いファイル型のパネルを開き、ご検分をとばかり差し出してくる。
早苗はしばし、やや表情をあらためてパネルの表示内容を眺め渡していたが、やがて小さくうなずいた。
「全部揃ってます、問題ないですよ」
「合格ですか、それはなにより。ではそろそろ、烹炊所へおいで下さい」
「わかりました」
と、言いもあえず、子供たちが早苗のもとへ戻ってきた。
「艦長さん、今日のお昼は、なーに?」
遥が、おっとりした笑顔で尋ねてくる。
「フィッシュ・アンド・チップスよ。お魚の白身のフライね」
早苗が答えると、真里が「えー、おサカナきらーい」と、腰をくねらせた。
「だいじょーぶ」
美佳が、自信満々に真里へ告げる。
「サナおねえちゃんのフライはね、すぅーっごく、おいしいんだよ! あたし、大好きなんだ」
「……ほんと?」
「うん、ほんと!」
ふと、有田少佐がうなずいてみせる。
「確かに、あのフライは絶品でしたね……」
「でしょ? ほんとにおいしいよね」
「ええ。あの、サクっ、シュワっ、とくる食感が、もうなんとも」
「そうそう!」
なぜか意気投合している。
その様子に、早苗と草川主計長は、つい苦笑をかわしあった。
「それじゃ、そろそろ行って来るから。みんな、待っててね」
そう子供らへほほえみかけ、早苗は艦長席を離れた。
「お魚、好きだから……期待してます」
「にゃー」
「がんばってねー」
「ほらハルカちゃん、艦長さんに、行ってらっしゃいって」
「うん、いってらっしゃーい」
などと、もろもろの声援に送られ、早苗は足取り軽く上機嫌で烹炊所へと向かっていった。
「これは……」
昼食時、士官室。
大皿にたっぷりと盛られたフィッシュ・アンド・チップスを眼前に、塚口提督はやや鼻白んだ様子で呟いた。
皿には丁寧にワックスペーパーが敷かれ、大ぶりな鱈の白身のフライが、フライドポテトとともに豪快に積み上げられている。
フィッシュの脇にはレモンが添えられ、隣りの皿にはグリーンサラダが盛られ、彩りや栄養バランスについては一応考慮されているように見える。
味付けとして塩とビネガーの小瓶、タルタルソースが並び、ドリンクにはミルクティー。
「まさか、士官室でチッピーの気分を味わえるとはな」
塚口提督は苦笑しつつ言った。
フィッシュ・アンド・チップスはイギリスの伝統的ファーストフードで、チッピーはそれを専門とする軽食スタンドをいう。
「わが海軍の開闢以来、初めてじゃありませんかね。軍艦の士官室で、こういう食事が出るというのは」
湯山副司令は、なにやら楽しげに皿を眺めている。
「……大佐、やけに嬉しそうだな」
「いや、軍医の芦田くんから、艦長のフィッシュフライは絶品と聞いておりましてな。さてどんなものかと」
彼らの周囲は、すでに興奮の坩堝と化している。
列席する二十名ほどの幹部将校らが、揃いも揃って溜息まじりの賛辞を飛び交わせ、誰もすっかり夢中になって、一心にフィッシュフライにかじりついていた。
特に子供たちの喜びようといったら、ひと口食べては嬌声をあげ、互いに感想を述べあって、またひと口食べては顔をほころばせ、と実に幸福そうに見える。有田少佐も、艦の幕僚たちとともに、ひと口ごと、会心の笑顔をはじけさせている。
塚口提督は、ふむ、と首をかしげつつ、レモンを絞り、塩少々とビネガーを振り、ワックスペーパーを畳み、フィッシュを包んだ。一応フォークが添えられているが、お構いなしに右手につかんで持ち上げ、そのまま豪快にかぶりつく。
たちまち、鋭い双眸に驚色がみなぎった。
「なんと……!」
料理としてみれば、素朴を通り越して粗野とさえ思わせる見た目だが、衣は香ばしく食感軽やかに、中身は汁気たっぷりと、淡白ながら奥深い鱈の味わいをじんわり上品に引き出し、後味も油っ気を感じさせぬほど爽やかである。
「こいつは驚いた……」
塚口提督は、大いに唸った。
「おお、こりゃ想像以上だ」
湯山副司令も喜悦満々に絶賛する。
「本場のイギリス人でも、こんな旨いフライは食ったこともありますまい。いや大したもんですな」
「ああ……」
塚口提督は、なにか複雑な顔つきでうなずきながら、ミルクティーをすすり、フライドポテトをつまみあげた。
「お茶のおかわり、いかがですか?」
ふと横あいから、さりげなく声をかけてきた者がいる。
見れば、早苗がティーポット片手にたたずんでいた。
「艦長みずから給仕とは……これは、恐れ入る」
おだやかに応える塚口提督へ、早苗は一見、愛想よく笑ってみせた。
が、その目は笑っておらず、むしろ真剣そのものである。
というのも。
戦隊の発足から三日、早苗はすでに幾度か塚口提督ら第七戦隊首脳部と食事をともにしているが、その提督から、いまだ一度も、自分の料理の感想を聞いていなかった。
もとよりどこか気難しげな風情のある人だが、これが食事となると一層黙然たるものあって、何を食べても、旨いとも不味いとも言わない。他の人々は、その様子から、だいたい喜んでくれているとわかるのだが、塚口提督だけは、まるで意識にカーテンでもかけているかのようで、その内心を推し量るのも難しい。
早苗は少々不安にかられた――自分の腕前に自信はあるのだが、口にあわない可能性もある。もしくは、艦長たる身が本来の職務を放っておいて烹炊作業などにかまけているのが気にくわないのかもしれない。
他にも、なにか至らぬ点があるのでは――と、考えれば考えるほど、つい悪いほうにばかり想像がいってしまう。
ここは一度でも、提督から感想なり苦情なりハッキリと聞いておかねば、早苗としても落ちつかない。
で、さりげなく提督の評価を引き出してみようと、給仕のふりして近づいてみた次第である。
実際に提督のもとへ立つと、酷評への不安と、それ以外の何かのために、不意に緊張が高まり、動悸は乱れ、耳朶は熱く、平静さを保つのに少なからぬ苦労を強いられた。
それでもなお、にこやかな笑顔をつくり、快活な声で、しかし実際には喉の奥から言葉を絞り出すように、ようやく、ひとこと尋ねた。
「フライのお味……、いかがでしょう」
わずかな間を置き、塚口提督は、重厚な声と態度でもって、こう答えた。
「見事な、お点前……」
そして精悍な口もとをかすかにほころばせる。
その表情を至近に見て、突如、早苗の心臓が、ひときわ高らかな鼓動を打った。
――褒めてもらえた。間違いなく。
それは嬉しいが、たったこれだけの出来事で、なぜこうも気分が昂揚するのかよくわからない。
学生の頃あたりによく経験したような、胸の奥が小刻みに締めつけられる、独特の感覚。早苗は内心、大いにうろたえはじめた。
意識の片隅には、なお少々不満な気分も残っている。
(茶道じゃあるまいし……普通に褒めてくれたらいいのに)
嬉しさと、不満と、当惑。
むろん、早苗とて一応、立派な成人女性のつもりであるから、そう取り乱した内心はおくびにも出さず、いや出さないつもりで、見た目は優雅に一礼し、「ありがとうございます」とだけ呟いた。
かすかに震える手で提督と副司令のカップにミルクティーを注ぎ足すと、再び一礼し、そそくさとその場を離れ、何やらおぼつかない足どりで烹炊所のほうへ駆け去ってゆく。
「……急に、何を慌てているんだ、彼女は」
塚口提督は心底不思議そうに小首をかしげた。
いっぽう湯山副司令は、はや事情を悟ったらしい。
「若いのう」
ひとり頷くと、湯山副司令は、悠々とフライドポテトを口に放り込んだ。