第31話:心の距離
マルクスが婚約を結んだ------。
その話はあの”女嫌いで有名な王子の婚約”とあって、あっという間に城の中を駆け巡り、幾日も経たぬ内に城だけでは留まらず国中にまで知れ渡る事となった。
おかげで城下町の人々の専らの話題はそんな王子を射止めた姫君は見目麗しい美少女だの何だのと憶測が憶測を呼び大騒ぎ。
まさかそんな事になっているとは露知らず、ミレーヌはここでの日課になりつつある、花への水遣りをしていた。
「ミレーヌ」
突然後ろから自分を呼ぶ声がしたと思い振り向くが誰も居ない。
キョロキョロと辺りを見回し、首を捻っているとまたも声を掛けられた。
「どこを見てるんだ?上だ、上」
「え?」
そう言われて上を見上げると、二階のバルコニーからこちらを覗くマルクスの姿があった。
蜂蜜色の髪の毛が太陽の光に照らされキラキラと揺れる。
その美しさに彼女が見とれていると、マルクスの表情が突然硬いものとなった。
それも一瞬だったのだが、それを見逃さなかったミレーヌはどうしたのかと声を掛けようとした時だった。
「お前は明日から別の部屋へ移る事になった。今から準備しとけ。いいな…」
彼は早口にそう告げると踵を返し去って行ってしまった。
もちろん彼女が何か言葉を発する前に…。
突然現れ、部屋を移るようにと言われても何のことやらさっぱりわからない。
ミレーヌは部屋の中で掃除をしていたセレナに声を掛けた。
「今、マルクス様が別の部屋に移れって…ねぇセレナ、何か聞いてる?」
「えーと、今後はマルクス様と一緒の部屋になると伺ってますが…そう言えば言うの忘れてました…」
「えぇ!?嘘でしょ?」
(そんな事マルクス様が認めたっていうの!?)
婚約は偽りで結婚しないのだから、今まで通り別々の部屋で過ごすのだと思っていたミレーヌは動揺した。
「まぁ!何言ってるんですか?婚約者同士だったら一緒の部屋で寝起きしても何の問題も無いじゃないですか」
いやいやいや!!十分に問題ありますから!!などとは言えるはずもなく…。
真顔でそう言ってのけるセレナにミレーヌはもはや苦笑するしかなかった。
「掃除も一通り終わりましたから、水遣りはお終いにして、お部屋へ戻って色々と整理してもらえますか?」
「あ、うん。そうね…」
何だか納得がいかないが事情を知らないセレナには文句も言えないので素直に従うしかなかった。
(一緒の部屋だなんてどうしよう……あぁ誰か…嘘だと言って!!)
次の日、朝早くに起こされたミレーヌは自分の持ってきたものがどんどんと運び出されるのを見て、何となく肩を落とした。
昨夜はほとんど寝る事が出来ず、寝に入ったのは朝方。
ほんの少ししか寝れなかった為今朝はあまり調子が良くない。
とりあえず邪魔をしないようにと部屋の隅にある椅子に彼女は腰掛けていた。
「ミレーヌ様、運び終わりました。移動しましょう」
そう声を掛けられて椅子から立ち上がると、少しの間過ごした部屋を後にした。
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新しく通された部屋はマルクスの執務室に近い部屋だった。
前に居た部屋がゆうに2つは入るんじゃないかという広さで、更に居心地が悪いような気がした。
今は侍女達も下がりこの部屋にはミレーヌ只一人。
結構遅い時間にも拘らずマルクスが姿を現さない所を見ると仕事が忙しいのだろう。
昨日の夜もあまり眠れなかったので、早く寝たいのだが、この部屋にあるのは4人寝ても余りそうなほど広いサイズのベッド一つ。
いくら広いとは言え、このベッドでマルクスと一緒に肩を並べて寝るのかと思うと、どうしても布団に入る事が出来ず、気を紛らわせようと未だに応接室のソファで本を読んでいた。
だが、ただ字を追ってるだけで全く内容が入ってこない。
仕方なく読むのを諦め本を閉じようとした時だった。
微かに廊下から歩いてくる足音を耳にした瞬間、ミレーヌの心拍数は一気に跳ね上がる。
あまりの緊張に廊下へと続く扉を凝視していると、程なくして扉が開きマルクスが入ってきた。
彼は部屋へ入ってくるなりミレーヌがまだ起きていた事に驚いたのか一旦動きを止たと思うと、次に眉間に皺を寄せた。
「まだ起きていたのか?」
「は、はい…何だか眠れなくて…」
そう答えるものの、マルクスは聞いているのかいないのか寝室とは反対側に位置する扉を開けるとミレーヌを見る事も無くその中へ消えて行った。
たったそれだけの行動なのに、彼との間にものすごい距離を感じてミレーヌは無性に泣きたくなった。
だが、こんな事で一々泣いていてはダメだと自分を奮い立たせ、何とか涙を飲み込んだ。
しばらくすると、マルクスが消えていった扉が開く音がしてそっちに視線を移すと、再び彼が姿を現した。
お風呂に入ってきたのか、彼の髪の毛が濡れていて、服装も白を基調とした簡易なものに変わっている。
初めて目にする姿にミレーヌが見とれてぼーっとしていると、さっきと同じ位置にいる彼女に呆れたのか、マルクスは聞こえるようにため息を吐き出すと「早く寝ろ」と一言だけ言うと寝室の扉を開けた。
またしてもさっさと入っていくのかと思いきや、マルクスは扉を開けたままミレーヌに声を掛けてきた。
「なんだ、早く寝ろと言ったのが聞こえなかったか?それとも、そこで寝る気なのか?」
「い、いえ!そういうわけじゃあ…」
「だったら早くこっちへ来い!」
イライラした口調で大声を出したマルクスにミレーヌは肩をビクつかせた。
そんなミレーヌの姿を見て彼は自分を落ち着かせる為かため息を吐くと「疲れてるんだ…」と言いながらミレーヌに近づいてくる。
「俺と一緒に寝るのがそんなに嫌か?」
「え?」
彼は今なんと?
まさかそんな言葉が彼から出るとは思わなかったミレーヌは驚いた。
「仕方ないだろう…。婚約を発表した以上いつお前が襲われるとも限らない。この部屋だったら俺がいるからまだ安全だと思ったんだが…今日は遅くなったが、これからはなるべく一人にさせない様早くこの部屋へ戻るから安心しろ」
「は…はい」
まさかそこまで心配してくれるとは思っていなかったミレーヌは彼の気遣いに頬を染めた。
だけど、次の彼の言葉で高揚した気持ちが一気に下がるのがわかった。
『もちろん王妃の問題が解決しだいこの婚約は解消するんだ。同じ部屋で過ごすのはその間だけだ』
寝る前にマルクスから言われた言葉。
それになんとか”はい”と答えたものの、ミレーヌはやり切れない思いで布団を顔まで上げると目を固く閉じた。
自分から偽りの婚約を望んだくせに、いざその立場になってみるともう後戻りは出来ないのだという事を思い知らされる。
あの後マルクスはさっさとベットの端へと潜り込むとミレーヌに背を向け、数分も経たずに寝息を立て寝てしまった。
実際は数メートルも離れていない所に居て、少しでも手を伸ばそうと思えば掴める距離にいても、心の距離はどんなに追いつこうと走って手を伸ばしたとしても届かないのだ。
その事実にどうしようもなく胸が痛み、ミレーヌは次から次へと溢れる涙を止める事は出来なかった。