2.その事件は突然に①
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『これで良い、これで良いんだ』
薄明かりにボンヤリと照らされた空間に、呪文のように繰り返す声が紡がれる。どこか焦点の合っていない目で呟き続ける影の前には、複雑怪奇な紋様がびっしりと刻まれた板が浮いている。
『こうすれば使役界はもっと良くなるはずなんだから……』
押し殺すように呟き、数瞬の逡巡の後、影はゆっくりと板に触れた。
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『この前の贈り物、ミスティーナが喜んでくれて良かったですね、兄さん』
『ウォーロック、敬語』
『あ、すみませ……ごめん』
天界の共有領域を歩いていたアルシオは、隣にいるウォーロックを相手に、今日も今日とていつもと変わらぬ会話をしていた。かなり表に出るようになって来たものの、まだ下がりがちの弟を引っ張り出し、共に歩を進める。
『お前が一緒に考えてくれたおかげだ』
『僕は何もしてないよ。兄さんのアイデアにほんの少し付け足しただけ』
『またそうして謙遜するのか』
『だって本当のことだから……』
すっかり遠慮癖が染み付いてしまったウォーロックが眉を下げて笑った時、天の一部が振動した。より詳しく言えば、天界の裏側が大きくたわんで震えた。
『――――!』
アメジストとトパーズの双眸がそろって瞠目し、次の瞬間床を蹴って走り出した。
『兄さん、使役界が揺らいでる!』
『ああ。神々の領域との境が崩れかけている……!』
神々が君臨する天界の表。その裏にある使役たちの世界。両者を区切る境界がひび割れ、じわじわと綻びていた。
『お父様、叔父様!』
使役界に通じる門の中で最も大きな正門の前に急行すると、既に駆け付けたらしいシルファールが佇んでいた。隣ではアーディエンスが眉間に皺を寄せて虚空を睨んでいる。アルシオたちに続いてミスティーナとイルーナも転移で現れた。
『……はぁ? 使役界を拡張すればもっと使える場所が広がると思った使役が、勝手に境界を弄ろうとした? 何でそんなことになる、天界の表裏を分ける神器はお前が……大精霊が管理してるはずだろうが』
赤い眼差しを滾らせるアーディエンス。その整った唇から漏れるのは剣呑な声だ。どうやら当代の大精霊に念話して状況を確認しているらしい。神成したアーディエンスは、当然ながら使役の長の座を次に引き渡している。
『……神器の定期メンテナンスを頼んだ使役が安置場所の開け方を覚えてたって、何でだ。こういう侵入や不正操作を防ぐために、調整したらソッコーで開錠方法を変えることになってただろ。――忙しかったから後で変えようと思ってたとかふざけんじゃねーよ! 馬鹿かお前は!』
『――だそうです。如何いたしますか、あなた?』
ミスティーナがアルシオを見て訪ねた。ブツブツ呟くアーディエンスの言葉を聞いていれば、大体の経緯が呑み込めたのだ。アーディエンスもそれを見越し、思念で伝えている言葉をわざわざ肉声にも出している。アルシオたちに事情を伝えるために。
表向きは冷静さを維持しているように見える愛妻。しかし、満点の夜空の瞳は、その奥に動揺を押し隠している。アルシオにはそれが手に取るように分かった。
『泣いてる場合じゃねーぞ落ち着け。すぐに神器の直近処理をキャンセルして境界を復元しろ。このままだと使役界が表の領域に押し潰されるぞ! ……いや、できませんじゃねーよ大精霊の権限で可能なはずだろ! それか副大精霊だ。大精霊が動けない時のために副大精霊も権限を持ってるだろ――はあぁぁ? 暴走した使役が神器の基幹から弄ったから、ぶっ壊れて新しい操作を受け付けなくなった!? 何やってんだこの大馬鹿野郎共が!』
『アーディエンス、落ち着いて』
眉をつり上げるアーディエンスの背を、ウォーロックが軽くポンと叩いた。
『そんな語調で責め立てたら、向こうは萎縮してしまうばかりだよ。気持ちは分かるけど一度冷静になって』
『はい、父さん』
瞬殺でアーディエンスが鎮まった。狂犬と恐れられた大精霊時代のアーディエンスを、神々以外で手懐けられたのはウォーロックとイルーナしかいない。
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