◆第二章 白い訪問者
気温はマイナス十五度
朝の港は、粉砂糖みたいな雪が薄く積もり、潮の匂いは氷に閉じ込められていた。坑道の海側入口で、エミリアが観光ルートのロープを張っていると、無線が小さく鳴る。
「エミリア、港の東端でホッキョクグマの目撃情報。ルート変更を」
「了解。田中さん、ゲート閉めるわ。人は建物の中へ」
二人で素早くポールを畳み、非常灯を点ける。雪上に残る足跡は大きく、爪跡がくっきりと残っていた。
「町の近くに来ることがあるの?」
「あるわ。ここでは“かわいい”じゃなくて“危険”。距離を取って、近づかない。匂いのするものは隠す。もしも近くまで来たら――」
彼女は腰のホルスターに触れる。「発砲のためじゃない。撃たないために“追い払う手順”を守るための道具。まずは音と距離。それがルール」
息を潜めて待つ数分が、やけに長い。やがて岸壁の先、白い影が雪面から離れていくのが見えた。鼻先を高く上げ、風を嗅ぎ、ゆっくりと海側へ。
エミリアが無線で連絡を入れ、深く息を吐く。
「行ったわね。彼らはここで“最強の住人”。だから私たちは丁寧に共存するの」
「観光客には見せられないけど……この緊張感も、この町の“リアル”なんだ」
「そう。自由に住める町は、自由を守るルールでできてる」
ロープを張り直す指が、まだ少し震えていた。
危険が去ったあと、港の空は澄みきっていて、氷の欠片が太陽の代わりに輝いていた。
吐く息が凍りそうな冷気の中、悠介は厚手の防寒具に身を包み、ホテル前に停められたエミリアの車に乗り込む。
「今日は山側の入口から坑道に入ります。風が強いので、顔までしっかり覆ってください」
彼女は運転席から振り向き、手袋越しに親指を立てた。
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山腹にぽっかりと口を開けた坑道の入口は、雪に半分埋もれていた。厚い鉄の扉を開けると、冷たい空気が吹き出す。
「ここは閉鎖されてから十年以上経ちますが、通風口が生きているので、季節ごとに風向きが変わります」
エミリアの声が反響し、坑道の奥へ吸い込まれていく。
懐中電灯を照らすと、岩肌が黒く光っている。石炭の名残だ。
足元は凍りついた氷の膜が覆い、ところどころ水滴が stalactite のように凍りついている。
「この冷気を利用して、入口に小型風力タービンを設置する計画です」
「でも奥まで風は届きますか?」
「届きます。山側と海側を貫く坑道なので、通気が良いんです。入口と中間、出口に小型タービンを並べて発電し、隣接施設に電力を供給します」
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さらに奥へ進むと、広い空間が現れた。かつて採掘機械が置かれていた場所らしい。
「ここは天井も高く、安定した温度を保っています。冬でも零下数度、夏でも十度程度。ここに温室型の屋内菜園を作るんです」
悠介はタブレットを取り出し、3Dモデルを表示した。
透明なポリカーボネートのドームが坑道内に並び、内部はLEDライトに照らされた緑で満たされている。
「LEDは波長を調整して光合成を最適化。水は循環システムで再利用し、二酸化炭素はホテルのボイラー排気を濾過して供給します」
「なるほど……外が極夜でも、ここだけは夏みたいになるわけですね」
「ええ。そして収穫した野菜はホテルのレストランで提供します。観光客にとっては“北極で食べる新鮮サラダ”は記憶に残るはずです」
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海側の出口に近づくと、潮の香りが漂ってきた。遠くから波音が聞こえる。
「海側からの風は塩を含みます。機材の耐食性を高めないといけませんね」
「でも港から歩いて来られる距離なので、観光ルートにもできますよ」
エミリアは笑った。「坑道ツアーとレタス試食、両方楽しめるなんて新しいですね」
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外に出ると、雪原の向こうに港町の灯が見えた。
エミリアが小声で言う。「田中さん、日本から来た人って、寒さの中でこんなに真剣な顔をするんですね」
悠介は笑みを返す。「寒いからこそ、やれることがあるんです」
この時、彼はまだ知らなかった。
この港町での数週間が、彼の人生を大きく変えることになることを――。