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◆第一章 北極圏への切符

 田中悠介、三十五歳。

 日本の「北洋開発株式会社」海外事業部に所属し、これまで極地農業と再生可能エネルギーの現場を渡り歩いてきた。北海道の冬でも稼働する小型風力発電、雪に閉ざされた山間部での水耕菜園――そんな現場経験を買われ、今度は地球の最北端に近い場所へ送り込まれることになった。


 ノルウェー政府は今、スヴァールバル諸島ロングイェールビュンの旧炭鉱を再利用し、持続可能な観光と食料自給を両立させる拠点づくりを計画している。

 極夜と白夜が交互に訪れる厳しい環境で、観光業は冬季に落ち込み、食料はほぼ全て本土から輸入される。その状況を変えるため、彼らは国外の先進技術に目を向けた。

 白羽の矢が立ったのが、日本の寒冷地対応型水耕栽培と、小型風力発電の効率制御技術だった。北洋開発は、その両方を組み合わせてホテルと一体化させる「炭鉱再生モデル」を提案。ノルウェー政府は試験導入を決め、悠介が現地調査と交渉の責任者に任命された。



---


 羽田空港のラウンジで、悠介はパソコンを開き、現地の観光局とのメールを確認する。


> 「田中様、現地ガイドとしてエミリア・ハンセンをご紹介します。観光案内だけでなく、炭鉱跡ツアーにも精通しています」



 添付された写真には、雪原の中で防寒服のフードをかぶり、金色の髪を覗かせて微笑む女性が写っていた。

 悠介は即座に返信する。


> 「旧炭鉱坑道の構造、山側と海側の入口、換気の状況を確認したい。また現地の食文化も教えていただきたい」



 数時間後、短く力強い返事が届く。


> 「了解しました。冬のロングイェールビュンは厳しいですが、魅力にあふれています。防寒は最大で。港町でお会いしましょう」



---


 オスロ経由で降り立った空港は、雪原にぽつんと立つ小さな建物だった。

 タラップを降りた瞬間、鼻腔を刺す冷気が全身を包み込む。マイナス十二度。吐いた息が、すぐに白い煙となって空に溶けた。


「田中さん?」

 声に振り向くと、紺色のパーカに毛糸の帽子をかぶった女性が手を上げていた。

「エミリア・ハンセンです。ようこそスヴァールバルへ」

 近づくと、頬にかかる金色の髪が極夜の淡い光を反射し、雪明かりに揺れていた。


港に下る途中、インフォメーションの看板が雪の向こうに揺れた。

「そうだ、田中さん。ロングイェールビュンには“自由”があるって知ってる?」

「自由?」

「スヴァールバルは世界でも珍しいの。ほとんどの国籍の人がビザなしで住める。就労許可も不要。条件はただ一つ――自分の生活を自分で支えられること」

「本当に? そんな場所があるんだ」

「ええ。ここは『地図の余白』みたいな町。研究者、ガイド、料理人、アーティスト、冬だけ住む人もいれば、数年だけ根を張る人もいる。誰でも来られて、誰でもここで物語を始められる」

 彼女は少し笑って続けた。

「だからガイドの私も、毎日“新しい住人の最初の一歩”を見てるの」


 窓の外を、港の灯が点々と流れていく。

 “自由に住める町”。その言葉は、悠介の胸で静かに鳴った。

 そして彼は確信する――この町こそ、自分の構想を形にする場所だ、と。



---


 四輪駆動の車で中心街へ向かう途中、彼女は窓の外を指差す。

「右手がスヴァールバル博物館。炭鉱や捕鯨の歴史、極地探検の展示が見られます。カフェもおすすめですよ」

「ぜひ寄ってみたいですね」

「その先はスヴァールバル教会。真夜中でも灯りがともります」


 港に下る道は、風で削られた雪面が猫の背のように波打っている。

「ここがアドヴェントフィヨルド。夏は遊覧船、冬はオーロラ観測の定番スポット。風が強い日はハスキーロッジ側へ回ります」

「観光客、多いですか?」


「ええ。極夜のオーロラ、白夜のトレッキング、氷河洞窟……季節で色が変わる町です」


「この風、山から海へ抜けているんですか?」

「季節によって逆向きになることもあります。……もしかして田中さんの計画に関係があります?」

「はい。旧炭鉱の坑道を風力発電に利用する案です。そして発電した電力で屋内菜園を動かす」

「菜園? この町で?」

「LED照明と循環式の水耕設備を使えば、極夜でもレタスやハーブが育ちます。地元の料理に新鮮な野菜を添えられれば、観光の魅力も増すでしょう」

「……面白いですね。冬のロングイェールビュンで緑を見るのは、心が温まりますから」



---


 ホテルに到着すると、エミリアは名刺を差し出した。

「明日は半日ツアーで山側の坑道を案内します。防寒具は必ず」

「ありがとうございます。楽しみにしています」


 部屋に入ると、窓の外に淡い緑の光が揺れていた。

 初めて見る本物のオーロラは、写真よりも静かで、まるで大気が呼吸しているように脈を打っていた。

 悠介は、ここから始まる国際協力の第一歩を胸に刻んだ。


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