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「いいかフリード、結局人間は自分が一番可愛いんだ。自分より大事なものなんて無いのさ」
明かりの無い真夜中の荒野。
焚き火がパチパチと音を立てるのを眺めながら呟いた師匠の横顔はいつもより儚く見えた。
艶やかな黒髪と凛々しい顔立ちは世間一般的に見れば美人なのだろうが、毎日倒れるまで叩きのめされているフリードからすれば下心など少しも湧かなかった。
ただの孤児だった自分に光る何かを見出した師匠。そんな師匠に拾われたフリードは鬼のような猛特訓を受けながら各地を旅している。師匠の強さは底なしで、未だに一撃も与えられていないが『いつかギャフンと言わせてやる』とフリードは闘志を燃やしていた。
普段は憎たらしいくらいの余裕面を浮かべている師匠だったが、焚き火を見つめる横顔は初めて見せる表情であった。
「なんだよ……そんなの当たり前だろ?」
いつも一緒にいる師匠がどこか遠くに行ってしまったような、そんな感覚に陥ったフリードの言葉が無意識に強くなってしまう。
こちらの内心を見抜いたのか振り向いた師匠はパッと眩しい笑顔を見せる。
「そうかそうか。よく分かっているじゃないか」
「ガキ扱いはやめろ! それで、何が言いたいんだ」
頭を撫でる手を鬱陶しそうに振り払うとボソっと放たれた『実際ガキだろ』という小声
を耳が拾うが敢えてそれは無視する。
嫌がるフリードの反応を十分楽しんだ師匠は表情を引き締めてから口を開いた。
「だけどな、他人のために命をかけること。実はこれが重要なことなのだ」
先ほどと真逆の話。自分のことだけを考える人間で溢れた世界、そんな世界で他人のために命をかけることにどんな意味があるのか。
フリードが首を傾げていると師匠はジッとこちらを見ながら真意を語り始めた。
「良いから聞け。もしも将来……」
真剣な表情の師匠にフリードは背筋を正す。しかし語られた内容は驚くべきものであった。
冗談を言っているような雰囲気ではない。表情が硬いままの師匠を見てそう確信したフリードは馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「なんだ、その話は? 意味が分からん……それに俺は一人でも生きていける」
呆れたように両手を広げるが、師匠は無言でこちらを見つめたままだ。
意図が分からず困惑していると師匠はやがて表情を緩めて溜息を吐いた。
「ガキには分からんか……どうやらお前に話した私が馬鹿だったみたいだ。忘れてくれ」
「だからガキ扱いするなって!」
怒ったフリードを見て師匠は再び笑うのであった。
結局、あの言葉の意味は分からないままだ。
他人のために命をかけることに意味はあるのか、その答えを知るために敢えて危険に飛び込んだりもしたが何かを掴めそうな感じはまだ無い。
困っている人を見れば『可哀想だな』とは思う。気まぐれで助けてみると感謝されるが大して嬉しくは無い。そもそも感謝されたいから助けているわけでもない。
あの時師匠が考えていたことに思いを馳せながらフリードは更なる深い眠りに落ちて行った。
太陽が沈みかけた平原南部、湖の周辺。
スヤスヤと眠るフリードを木々の影から見つめる獣がいた。
体長二メートルの逞しい体を支える四足は丸太のように太く、追い詰めた獲物を決して逃さない鋭い爪と牙はこれまで多くの生命を死に追いやってきた。暗闇で爛々と輝く灰色の両目に見つめられた者は全身が震え上がるだろう。
「グルルゥ……」
無防備な獲物に狙いを定めたグレイトウルフは微かな唸り声をあげた。
大きく裂けた口からは鋭利な牙が覗いており愉悦に満ちた表情は数時間前に仕留めた人間達のことを思い出しているようだった。
弱肉強食の世界で生きるモンスター達はいわば生きるために他者の命を奪うが、稀に殺戮自体を目的とするモンスターも存在している。グレイトウルフはその中でも残忍な性格で追い詰めた獲物をジワジワと痛ぶって殺すことで有名であった。
フリードから目を離したグレイトウルフが振り返ると自身より小さい個体が七匹。物言わぬ十四の瞳が群れのボスの号令を静かに待っていた。
「ウォフ!」
小さく鳴いたボスは物音を立てないように木々の影から一歩踏み出す。
自然の中で生きるグレイトウルフにとって気配を消すのはお手のものだ。もし気づかれたとしても彼らの駿足から逃げられる者はそういない。
一分後、フリードがもたれかかりながら寝ている木の周りをボスと七匹が取り囲んでいた。
待ちきれないように涎を垂らす者もおり興奮したように尻尾をブンブンと振り回す。
しかし厳格な上下関係があるようで、ボスが一歩前に出ると他の仲間は大人しくなった。
ここまで近づいても気づかない獲物を内心で嘲笑いながらボスは後ろ足に力を込め、限界まで縮められた足を一気に解放させると目の前の獲物に飛びかかった。
その刹那、カッと目を開けたフリードは目にも止まらぬ速さで地面に置いてある大剣を掴むと自身に牙を突き立てようとしたグレイトウルフの首に横凪の斬撃を叩き込み、胴体と頭が分離したボスの首からは勢いよく血が吹き出した。
これに驚いたのが仲間達だ。今にも走り出そうとしていた体が予想外の出来事に硬直する。
実はフリードは襲われる直前まで相手の気配を察知していなかったが、飛びかかる寸前にグレイトウルフから漏れた殺気に体が反応したのだ。
数々の修羅をくぐり抜けてきたフリードは他者から向けられる悪意を人一倍敏感に知覚することが可能であり、鈍感な者ほど早死にするというのが彼の持論であった。
「やはり夜に襲ってきたか……実力差も分からん獣どもが」
大剣にベッタリと付着した血をサッと振り払う。フリードの言葉は隠しきれないほどの怒気を帯びていた。
先ほど見つけた死体に欠損部分がないことから、捕食以外の目的で殺されていたことにフリードはすぐに気がついた。生きるための殺生に善悪など存在しないが、命を弄ぶ行為は人間であれモンスターであれ、見ていて気持ちの良いものではない。
一切の情けを感じさせない冷徹な表情。透き通った新緑の瞳は冬の風のようにどこまでも寒々しく眼前の敵を射抜いていた。
言葉の意味は理解できなかったが突如目の前の人間から溢れ出た濃密な殺気に思わずグレイトウルフ達が一歩身を引く。
「今更後悔しても遅いぞ!」
フリードは一番近くにいたグレイトウルフに凄まじい速さで迫ると胴体に深々と大剣を突き刺す。甲高い鳴き声を発してまた一匹グレイトウルフが地に伏せた。
その時になって硬直していた残りのグレイトウルフ達の時が戻る。
逃げるのであればフリードも追うつもりは無かったが彼らは一種のパニック状態に陥っており、目の前で死を撒き散らす人間に恐怖を感じながらも自身を制御できず次々に飛びかかる。
そんな敵の行動にフリードは手加減するつもりなどない。
大剣を振りかぶる度に空気を切り裂く『ブンッ』という音が響き、その斬撃を身に受けた者達が次々と倒れていく。
そして数分後、その場には八匹のグレイトウルフの骸が出来上がっていた。
全員の死を確認したフリードは大剣に付着した血を湖の水で洗い流してから鞘に納める。
「邪神教……とは無関係か」
淡々と言葉を吐いたフリードであったがその目は先ほどよりも殺意に満ちていた。たった今倒したモンスター達など忘れてしまったかのようにどこか遠くの方を睨む。
念のためにしばらくは辺りを警戒していたフリードであったが、グレイトウルフの生き残りや新たな乱入者がいないことを確認するとその場を離れた。