「……あなた誰?」自殺を図った妻が目覚めた時、彼女は夫である僕を見てそう言った
「旦那様!!奥様が…奥様がお目覚めになりました!」
「本当か!?」
僕はその報告を聞くや否や、急いで妻の部屋へと駆け出した。
4日間意識が戻らず、どれだけ心配した事か!
「エメライン!」
部屋に飛び込むように入ると、寝台で横になっていたエメラインは驚いた顔で僕の方に視線を向けてこう言った。
「……あなた…誰?」
「………え?」
◇◇◇◇
妻のエメラインが 睡眠薬を大量に飲み、自殺を図ったのが五日前。
更にその数日前に、妻は流産をしていた。
結婚して三年目にしてできた待望の子供だった。
自殺に思い至ったのは、その事が原因だったのだろう…
侍女の発見が早くて一命を取り留めたけれど、4日間意識不明の状態が続いていた。
5日目に目覚めた妻は、僕との三年間の結婚生活を全て忘れていた。
自分の事、家族の事は覚えている。
けどその記憶の中に、ここに嫁いできてから三年間の思い出だけがきれいに消えていたのだ…
「あなたはヴィンセント・ノルテン侯爵で私達は3年前に結婚した夫婦…」
僕が説明した事をオウム返しをしながら確認するエメライン。
「そうだよ」
「……信じられません。それより…とにかく家に帰りたいのですけれども…」
「だからここが君の家なんだよっ」
「いいえ、ここではなくジェライス家ですっ 私の家はそこですから!」
「エメライン…」
「…あの…」
「何だい? 何か欲しい物があるなら何でも言ってくれ!」
「名前で呼ばないで頂けますか? しかも呼び捨てだなんてっ」
心底不愉快そうな表情をするエメライン。
「……え?」
「あなたがどれだけ私たちが夫婦だったと仰っても、私にはその記憶がなければ身に覚えもありません。それに……」
「それに…?」
「……あなたといると……あまり気分がよろしくありませんの…」
忌々しそうに、僕から視線を逸らす。
「エメライン…」
彼女は、再度名前で呼ばれた事に不快な表情を隠さなかった。
結婚して三年。彼女からこのような態度を取られたのは初めての事だ。
「あなたではお話になりません!」
彼女はベッドサイドに置いてあったベルを掴み、激しく鳴らした。
「はい。お呼びでしょうか、奥様」
「まずはその奥様と呼ぶのはやめて!」
「え!? あ、あの…」
いきなり怒られて驚く侍女。
それもそうだろう。
エメラインは理性的で感情にまかせて言葉を発することはなかった。
ましてや、人を怒るところなど見たことがない。
「今すぐ私の両親を呼んできてもらえるかしら」
「か、かしこまりました」
侍女は慌てて部屋を出て行った。
エメラインが意識不明になっていた5日間、彼女の側にいた義両親。
(義父は仕事の都合もあり、自身の領地と我が屋敷を行き来していたが…)
エメラインの意識が戻り、この三年間の記憶がないと医師から告げられた時、二人で話をしたいから…と義両親には別の部屋で待って頂いていた。
しばらくすると、義両親が部屋にやってきた。
「「エメライン!」」
入るなりエメラインを抱きしめる義両親。
「お父様、お母様。ご心配をおかけして申し訳ありません」
先程僕に見せていた顔とはうって変わり、やわらかい表情になっているエメライン。
部屋を出ざるを得ない空気に押し出された僕は、静かにその場を後にした。
自分の部屋に戻った僕はソファに身を任せ、物思いに耽りながらエメラインの態度に違和感を持った。
「記憶を失ったからと言って、ここまで僕に嫌悪感を抱くものだろうか…」
誰に言うともなく独り言ちる。
僕たちは政略結婚だったが、お互いに愛し合っていた。
やわらかなウエーブがかった長い金髪は美しく、トパーズの瞳で静かに笑う可愛らしい表情に、僕は初めて会った時から彼女に好意を抱いた。
彼女も初めて会った時から僕に好感を持ってくれていたと、結婚して暫くしてから恥ずかしそうに話してくれた。
いつも明るい微笑みを見せていたエメライン。
けれど…そんな彼女の様子が数ヶ月前からおかしくなっていった。
そう…使用人としてノーマンという男を雇い入れた時から…
コンコン
「はい」
「ヴィンセント…エメラインの事聞いたわ…あなたの事を覚えていないんですって?」
「パメラ…」
部屋に入って来た女性はパメラ。オブレイン子爵家の令嬢だ。
彼女とはアカデミー時代の同期だった。
艶やかな黒髪にラピスラズリの瞳は印象的で、美しい彼女を中心によく男性たちと談笑していたのを目にしていた。僕はその様子をいつも少し離れた場所から眺めていた。
彼女は僕の初恋の人でもあった…
学年の途中で海外留学をしてしまったが、先日夜会で4年ぶりに再会。
エメラインとも親しくなり、よく家に遊び来るようになった。
エメラインが自殺を図り、意識不明になってからは毎日のように見舞いに来てくれた。
侍女からでも聞いたのだろう…エメラインが僕の事だけを忘れたと聞いて驚いている様子だった。
「そうなんだ…どうして僕と結婚していた間の事だけ…」
「…かわいそうなヴィンセント…」
そう言いながら彼女は僕の手にそっと触れた。
その瞬間、少し体に力が入った。
彼女にはエメラインの事でいろいろ相談にも乗ってもらっていた。
エメラインとノーマンとの関係が怪しい事に最初に気が付いたのはパメラだった。
『エメラインとあの使用人のノーマン、距離が近すぎると思うの』
そんな言葉に初めは、パメラの気のせいだと思っていた。
エメラインに限って間違いがあるはずがないと妻を信じていたが、その信頼はパメラの言葉で崩れ始めた。
『…落ち着いて聞いてね。私…エメラインが使用人のノーマンと抱き合っているのを見てしまったの』
気のせい…という言葉では誤魔化せない疑惑。
そんな話を聞くと、エメラインとノーマンがやたら一緒にいるような…僕はそんな疑いを持ち始めた。
そういえば、エメラインがノーマンの事で何か言ってなかったか…?
『この間、エメラインの部屋からノーマンが服を直しながら出てきていたわ』
次々にパメラから聞かされる話は、今まで抱いていた疑惑を確信へと変えた。
そしてその現実は僕にとってはつらすぎて、僕を慰めてくれるパメラと口づけを交わしてしまった。いや、それだけではない……
「あら、お邪魔をして申し訳ありません。一応ノックはしたのですがお返事がなかったもので」
そう言って目の前に立っていたのはエメラインだった。
僕とパメラは慌てて距離を取った。
「そんなに慌てなくてもよろしくてよ。恋人同士なのでしょ?」
エメラインは、僕たちを見下ろしながらそう聞いた。
「な! 何を言っているんだ! 僕とパメラは友人だ!」
僕はエメラインの言葉を否定した。
「そうですか。けれどあなたと彼女の関係に、今の私は全く興味はございません。それよりも父からお話があるそうです。一緒に来て頂けますか? あと…私の事を名前で…ましてや呼び捨てはお止め下さい。前にも申し上げましたよね」
そう言うと鋭い視線で僕を睨みつけた。
そんな様子のエメラインを見たパメラは戸惑っていた。
「すまない、パメラ。今日は悪いけど…」
「え、ええ…。また日を改めるわ」
「待って。あなたがパメラ…さん?」
そう言いながらエメラインがパメラに視線を落とす。
「私の事まで忘れてしまったの? エメライン! 私たちあれほど仲良くしていたのに…っ」
パメラは悲し気な表情をしながら俯いた。
そんなパメラの様子には気にも留めず、話を続けるエメライン。
「ちょうどよかったわ。あなたも一緒に来て下さらない?」
「え?」
エメラインの意外な言葉に、驚きの声を上げるパメラ。
「ちょっと待ってくれ。義父上たちがいるのになぜパメラまで…」
エメラインは僕の言葉には耳を貸さず、そのまま部屋を出て行った。
ついて来いと言わんばかりに。
顔を見合わせながら戸惑う僕とパメラは仕方なく、一緒にエメラインの後をついて行った。
……嫌な予感しかなかった。
応接室にはエメラインの両親であるジェライス侯爵夫妻が座っていた。
「…エメライン、その女性は?」
義父上がエメラインに問う。
「例の方ですわ」
「ああ…」
義両親は顔を顰めながら僕とパメラに視線を向けた。
いったい、どんな話があるのだろう…
「二人とも掛けてくれたまえ」
エメラインは義両親の隣に座ったので、向かい合わせになるように僕はパメラと並んで座った。
「この度はお二人にはご心配をおかけし、誠に申し訳ございません」
僕は席に着くやいなや、義両親に謝罪した。
「…早速だが、今後の事で君に話があるんだ」
「今後の事…とは?」
そう尋ねると義父は一枚の書類を僕の目の前に広げた。
離婚承諾書だった。
「あ、あの…これは?!」
思いもかけない書類に僕は激しく動揺した。
「見ての通りだ。エメラインが君との婚姻を解消したいと強く希望しておってね」
「!! エメライン! どうして!?」
「……何度言えば…はぁ…話が進まないからもういいです」
僕が名前を呼んだことに腹を立てているようだが、今はそんな事はどうでもいい!
「離婚理由はいろいろありますわ。まずはあなたの事を全く覚えていないのに、今後も夫婦として過ごす事はできませんわ」
「忘れてもいい。また最初から始めていこう。政略結婚ではあったが、僕たちはお互いに愛し合っていたのは確かなんだ」
「…愛し合っていた? だってあなたが愛しているのはそこにいるパメラさんでしょ?」
「!! い、いい加減にしてくれ! 僕とパメラは友人だとさっきも言ったじゃないか!」
義両親の前で飛んでもない事を!
僕は背中に汗が流れるのを感じた。
「友人? 本当にそうかしら? 日記にはそのような様子は見当たらなかったですけど」
そう言いながら一冊のノートを手に取り、パラパラとページを捲り始めたエメライン。
「え…日記?」
そういえば…エメラインが毎晩寝る前に書いていた…
いったい何が書かれているんだ?
胸の鼓動が速くなっていった…
「数年は平穏に暮らしていたようですけれど…半年ほど前から様子が変わって来たようです。厳密に申し上げると、パメラさん…あなたと出会ってからですわ。確か…ここらへんだったかしら」
そう言うとエメラインはパラパラとページを捲っていた手を止め、内容を読み始めた。
『夜会でヴィンスのアカデミー時代の同級生というパメラ・オブレインという女性に会った。とても美しい人。彼女を見るヴィンスの熱のこもった視線が気になった。彼女はアカデミー在学途中で海外留学をし、最近帰国したらしい』
「それからパメラさんはよく遊びに来るようになったみたいですね。
『今日もパメラが遊びに来た。どうしてこんなに頻繁に来るのかしら? ヴィンスに聞いたら、アカデミー時代はそんなに親しくつきあっていた訳でもなかったようなのに…。けれど、ヴィンスはパメラが来る日はとても嬉しそう。お茶をしている時も、目線はいつもパメラに向いていた。パメラはヴィンスの身体にやたら触れながら話をしているのはわざとなのかしら? ヴィンスも嫌がる様子は全くなかった』
パメラさんはあなたの妻と仲が良かったと仰っていたけれど、仲が良かったと思っていたのは彼女の方だけだったようね」
エメライン…そんな風に思っていたのか…
確かに初恋のパメラに再会し舞い上がっていた部分はあったかもしれないけれど…
「僕はあくまでもパメラとは友人として接していただけだっ」
「…」
エメラインは僕の言葉には全く反応せず、また日記のページを捲り出した。
そしてあるページで手が止まり、読み始めた。
『さっき執務室に宝飾店からの請求書が届いていた。中身を見ると、注文されたのはルビーのネックレス。そういえば、来月は私の誕生日だわ。覚えてくれていたのね。けれど、ルビーは私の好みとは違うけれど…ヴィンスがくれる物なら何でも嬉しいわ。この請求書は見なかった事にしとこう』
『私へのプレゼントと思っていたルビーのネックレスはパメラの胸で光っていた。ヴィンスは私の誕生日を覚えていなかった』
「そのネックレスのことかしら?」
エメラインはそう言いながら、パメラの首にかかっていたネックレスに視線を向けた。
パメラはその言葉に反応すると、左手で胸元で揺れていたルビーの石を隠した。
「こ…これは…パメラがもうすぐ誕生日って話していたから…」
僕はしどろもどろになりながら説明した。
「それでご自分の妻の誕生日は忘れていたと仰るのね? 妻の誕生日より優先されるなんて…よほど大事なご友人なのね」
彼女は冷笑した。
「だから、パメラさんの言葉を信じたのね。こんな事も書かれていますわ」
エメラインはまた日記を読みだした。
『ヴィンスが事もあろうか使用人のノーマンと私の仲を疑っている。パメラが私とノーマンが不貞を働いているところを見たと言っていたそうだ。彼女はなぜそんな嘘をヴィンスに言ったのだろう? それよりヴィンスは私が否定しているにも関わらず、パメラの言葉を信じた。私は前からノーマンが私に付きまとっている事をヴィンスに相談していたのに。けれど彼は私にこう言った。君に隙があるからじゃないのか? と…。そう言って彼は、冷めた目で私を見下ろしていた。ヴィンスは私の話を聞こうともしなかった』
「あなた…自分の妻より数年ぶりにあった知人の嘘を信じていらしたのね」
「そ…そうじゃなくて…」
パメラがエメラインと使用人との不貞の現場を目撃した事を話せば…けど、義父達の前で話すのは躊躇われる。
「嘘ではありませんっ 私…見たんです! エメラインのご両親の前で話すのは心苦しいのですが、エメラインが使用人と…抱き合っているのをこの目で!」
パメラ! ああ…言ってしまった。
…けど、パメラの話を聞けば義父上たちも…
しかしエメラインのご両親は互いに顔を見合わせて…呆れたように溜息をついていた。
え? どういう反応なんだ?
自分の娘が不貞を働いていたというのに…
「それであなたは?」
エメラインが僕に問う。
「え? 僕?」
質問の意図が分からなかった。
「あなたは自分の妻が不貞しているところを、その目で一度でも見た事はあるのですか?」
「そ…それは…っ」
…見た事は……ない…
全てパメラから聞いた話だ…でも…
「“私”は見たらしいですよ」
「「え?」」
エメラインの思わぬ言葉に、僕とパメラの言葉が重なった。
「あれは…どこに書いてあったかしら? ああ、あったわ。
『信じられない! 信じたくない!! ヴィンスとパメラが口づけをかわしていた! いつから二人は!? ああ…二人を探しにこなければ良かった…こんな…どうすればいいの!?』
とあるけれど?」
「!!」
「心当たりがあるようですわね」
僕の表情が変わったのを見逃さなかったエメライン。
まさかエメラインに見られていたなんて!
あの時はパメラから聞かされていたエメラインの不貞に悩み、苦しみ…その事をパメラに話している内に…
「あなたたちの関係の方がよっぽど疑わしいのではないかしら?」
「ち、ちがう…っ」
否定する言葉に力が入らない。
「そ、そうよっ 違うわ! エメラインの見間違いよ!」
パメラも否定するけれど、動揺が丸わかりだ。
「見間違い…ではこれも見間違いかしら?」
エメラインが小さな紙袋を手にし、その中身をテーブルに出した。
コロコロ…
ラピスラズリの宝石の周りには小さなダイヤモンドがあしらわれているイヤリングが片方、転がりながら出てきた。
パメラの瞳と同じ色だ…
「「!」」
手で口を押さえるパメラ。
僕も見覚えがあった。
「これ…どこから出てきたと思いますか? あなたの寝室からですよ、ノルテン侯爵。日記に書いてありますわ。えっと…
『ヴィンスときちんと話をしようと彼の部屋に行ったが、出かけてしまったようだった。私の妊娠を期に、部屋を別にしたいとヴィンスが言ってきた時は悲しかった。ノーマンとの事を疑われた時はショックで何も言えなかったけれど、話せばきっと分かってくれるはず。そう思いながら乱れていた寝台の上を整えていると、枕の下からイヤリングが出てきた。ラピスラズリの周りに小さなダイヤモンドがあしらわれている。私のではない。パメラの瞳と同じ色だ』
あなたの妻が妊娠してから寝室は別々にしていたと書いてあります。なのになぜ、女性物のアクセサリーがあなたの部屋から出てくるのですか? しかも寝台から!」
「そ…それは…」
僕とパメラは言い訳しようにも言葉が出てこなかった。
この時初めてパメラと関係をもってしまったから…
「そもそも寝室を別々にしたのは、あなたが自分の妻を疑ったからですわよね? 妊娠を報告した妻にあなたはこう仰っています。
『お腹の子は僕の子供なのか? ヴィンスは私にそう問いかけた。本気で聞いているのだろうか…私は彼の言葉に衝撃を受け、言葉が出なかった。すぐに答えなかった私に、ヴィンスは更なる不信感を抱いたようだ。何も言わずに出て行ってしまった。あんなに待ち望んでいた赤ちゃんなのに…どうして…。この日からヴィンスは別の部屋で寝起きするようになった』
妊娠の報告を受ける前に、パメラからエメラインと使用人との出来事を聞いていたから、思わず出てしまった言葉だった。
とても後悔したが、エメラインに合わせる顔がなくて…寝室を別々にし…お互いにほとんど会話も交わさなくなってしまった時期だった…
「こんな事され続けたら妊娠初期の妊婦には非常に強いストレスがかかった事でしょうね。
『赤ちゃんがいなくなってしまった…彼は一度も会いにこない…今もパメラと一緒にいるのだろう…こんな親のところに生まれてきたくなかったのよね。だからいなくなってしまったのよね…私もいなくなりたい』
「この日を最後に他には何も書かれていないわ。きっとこの文を書いた後に自殺を図ったのね。そう…あなたは妻が流産したにも関わらず、彼女のところにいたの。待ち望んでいた子供を流産し、夫に裏切られれば死にたくもなるわよね」
エメラインが呆れた目で、僕に視線を向けた。
義父は怒りを抑えるかのように両手を合わせて握り締め、義母は声を殺しながら、目をハンカチーフで押さえている。
「…」
何も反論できなかった。
子供を流産した事は、僕が責めた事が原因ではないかと思っていたから…苦しく…悲しくて…でもエメラインの顔を見るのが怖く……慰めに来てくれたパメラを抱いた……
エメラインは、僕とパメラとの関係を知っていたのか…
自殺したのは流産したせいだと思っていたが…それだけではなかった…っ!
記憶を失いながらも僕に嫌悪感を抱いていたのは、心のどこかで僕に裏切られた事を覚えていたからなのかもしれない…
「そもそもその使用人って、パメラさんがお金で雇った人のようですよ?」
「え?」
エメラインと不貞を働いていると言っていた使用人をパメラが雇っていた?
パメラの顔を見ると、慌てて視線をそらし俯くパメラ。
「待ってくれ…どういう事なんだ!?」
僕はエメラインに答えを求めた。
「あなたの妻はパメラさんが来てから夫の様子が変わって行った事に不安と、新しく雇われた使用人に不信感を持ったらしく父に相談したようね。いろいろ面白い事が分かったみたい」
そう言うと義父の方を見るエメライン。
話を受けるように頷き、話し始めた義父。
「これを見るがいい」
義父は僕の前に茶封筒を投げた。
僕は急いで中身を確認すると、そこには信じられない事が書かれていた。
「海外に留学してからかなり奔放で乱れた学生生活を送っていたようだな。使用人はその取り巻きの一人の子爵令息。そして侍従長に金を握らせ使用人として雇わせ、娘があたかも不貞をしているように見せる為に使用人を近づかせた。そこでおまえは嘘でヴィンスの疑心を煽り、心の隙間に付け入り誘惑したのだろう? そんな誘惑に簡単に乗る方も乗る方だがな」
義父に睨みつけられ、僕は手にある書類を握り締めた。
「デ…デタラメな事言わないで!」
パメラが無駄な反論をした。
「ですから、その書類をご覧になって下さらない? 私と不貞関係にあると仰っていたその使用人が全て白状しているのよ?」
エメラインが呆れながら、さらなる事実を口にした。
確かにノーマンの陳述内容が書かれていた。
全てパメラに頼まれた事だと…
「そ…そんな…パメラ…ほ…本当なのか? ここに書いてあることは!!」
これが事実なら僕がエメラインに言った事は…してきた事は…!
「ち、違うわ! こんな調査デタラメだってば!!」
「そんなにデタラメデタラメと主張するのなら、あなたを訴えても問題ないわよね?」
「え!?」
「あなたは自分が潔白だと証明できるのよね? だからそこに書かれた事がデタラメだと主張するのでしょ?」
「そ…それは…っ」
パメラの顔色が土気色になっていく。
額から汗が流れ落ちる。
膝の上で握り締められた両手は震え始めていた。
「覚悟しておく事ね。子爵家の令嬢が侯爵家の妻を陥れたのだから。そのせいで流産し、自殺にまで追い詰めたのだから」
「そ…そんな…ま、待って…」
パメラの縋るような言葉には気にも留めず、席を立つエメライン。
「行きましょう、お父様、お母様。あとノルテン侯爵はその離婚承諾書にサインをしたら、ジェライス家に送って下さい。内容を確認次第、こちらで提出しておきますから」
そう言うと、ドアに向かう彼女を僕は呼び止めた。
「待ってくれ! すまなかった! 心から謝罪する! だから…お願いだからもう一度だけやり直してもらえないだろうか? 三年間、僕たちは夫婦として幸せに暮らしていたんだよ。僕は…君と別れたくない…っ!」
「…貴方は自分の妻を裏切ったというご自覚はないのですか? 三年間夫婦として過ごした妻より、数年ぶりにあった知人の言葉を真に受け妻が不貞していると信じ込み、お腹の子は別の男の子供と疑い、流産した妻に寄り添う事もなく他の女性と共に過ごしたあなたとこの先も夫婦として続けていけると本気でお思いですの? 例えあなたと過ごした記憶を持っていたとしてもごめんですわ」
「…」
返す言葉が何一つ見つからなかった…
「ああ、それとあなたには慰謝料を請求致します。あと我が家の援助も打ち切らせて頂きますのでそのおつもりで」
そう言うとエメライン達は部屋を出て行った。
残された僕とパメラは魂が抜けたように、ソファから動けなかった。
もともと我がノルテン侯爵家は格式ばかりを重んじる貧乏貴族だった。
そこで先代である亡くなった父の友人でもあった義父からの援助の申し出により、僕とエメラインは婚姻し、家を立て直す事ができたのに…
突き放すような言葉を放ったエメラインは、乾いた目で僕を見下ろしていた。
僕の言葉には耳も貸さず、一方的に話を終わらせた…
そして僕は気がついた。
全部……僕がエメラインにしてきた事じゃないか。
エメラインは何度も言っていた。
僕を裏切るような事は何もしていないと。
全てパメラの嘘だと。
けれど、僕はエメラインの言葉には耳を貸さず、話もろくに聞こうとしなかった…
去り行くエメラインの後ろ姿を、僕はただ見送る事しかできなかった…
◇◇◇◇
バタン
馬車に乗り込むと、私は大きな溜息をついた。
「大丈夫? エメライン」
「ええ、お母様」
「すまなかった。亡くなった友人の息子を助ける為とは言え、大事なお前をあんな男と結婚させて…」
「お父様のせいではありませんわ。それに…もう終わったことです」
「けど…記憶を失ったふりまでしなくても…」
「この方が離婚話がスムーズに進むと思ったんです。…少し疲れました。屋敷に着くまで眠ってもよろしいですか?」
「ええ、着いたら起こしてあげますからね。ゆっくりお休みなさい」
そう言うと、母は優しく自分の肩に私の頭を寄せた。
――私は目を瞑り、夜会でパメラと出会った時の事を思い出していた――
初めて会った時から嫌な予感はしていた。
ヴィンスを見るパメラの目つきが、まるで獲物を狙う捕食者のようだった。
そして、パメラを見るヴィンスの瞳は熱を帯びた視線を向けていた。
パメラにとって侯爵という爵位は魅力的に映った事でしょうね。
我がジェライス家の援助がなければ、貧乏貴族になるとも知らずに。
妻の言葉よりも数年ぶりにあった彼女の言葉を鵜呑みにし、関係を持った夫。
やっと授かった子供は別の男との子供ではないかと疑われ、流産した妻の傍ではなくパメラと一緒にいた最低な夫。
パメラと口づけを交わしていた貴方を見た時の衝撃を、寝室でパメラのイヤリングを見つけた時の絶望を、あなたは想像する事もなかったのでしょうね…ヴィンス…
目が覚め死ねなかった事に落胆し、次に思ったのはヴィンスと別れる事だった。
最初は私の日記を証拠にヴィンスを問い詰めるつもりだった。でも私自身が書いた事で問い詰めても、主観的感情が羅列された文章でしかない、妄想だ…等と、言いがかりやごまかしで有耶無耶にされる懸念があったし、信憑性に欠けると思った。
裁判では証拠として挙げられるらしいけれど、そこまで長引かせる気はなかった。
パメラの件は別として…
だから私自身が第三者になって日記を証拠として二人を問い詰めようと思い、記憶を失ったふりをする事にした。
それに自殺する前に、父にパメラの事を調べてもらうようにお願いしていた事も功を奏した。
『政略結婚ではあったが、僕たちはお互いに愛し合っていたのは確かなんだ』
そう言ったヴィンスの言葉が脳裏に浮かんだ。
ヴィンス…あなたの言うとおりよ。政略結婚だったけれど、私たちは確かに愛し合っていたわ。夜会でパメラと出会うまでは…
「エメライン…」
母が気付き、ハンカチーフで私の目元を拭って下さった。
最後に残っていたヴィンスへの想いが涙とともに流れて消えた…
最後まで読んで下さり、ありがとうございました。