傘を差す仕事
「今更言うのもおかしいかもしれないが、私だって毎日眠れないということではないんだ。確かにしっかり眠れた日は片手に収まる程度だけど、眠れる日だってある。最後によく眠れたのは、まだ蜻蛉の飛ぶ前だから一か月ぐらい前だったかな。
あの日は確か、ああ、そうだ、あまりに眠れないのが煩わしくて死んでしまおうと、近くの川まで歩いていたんだ。そこに向かう途中だったか、誰の忘れ物かはわからないが、道の片隅にぽつんと真っ赤な林檎が落ちていた。いつもならそんなもの無視するところなんだけど、何故だかこの日だけは異様に惹かれてね。思い切り蹴飛ばしてみたくなった。けれどそんなことは出来ない。生まれたときから食べ物を粗末にしてはいけないと耳に胼胝ができるくらい散々言い聞かされて育ったし、神の恵みである食べ物を無碍にすることなど、とんだ罰当たりだ。道徳の心を持つものとしてはどうしても蹴ってはいけなかった。
――けれど、それがもう死ぬ人間であるなら。
一瞬の極悪な考えが私を腹の底から興奮させた。そうだ、眠れぬ苦悩からすれば、今更恐れるものなどないじゃないか、と神様を相手取ることにした。昼下がりの街路の一角でとてつもない凶悪犯になった。
そうしてその林檎を思い切り蹴り飛ばした。林檎は粉々に砕けて宙を舞った。私は舞った欠片の一つ一つを目で追った。きっと一瞬の出来事であったが、私にはその一瞬が一刻にも永遠にも感じられた。眼前いっぱいに広がる濁色の白と赤の色彩が脳髄で反射してくらくらする、この鮮やかのことといったら、今まで感じていた鬱々も一瞬にして吹き飛ぶほどだった。
それからは砕け散った林檎を拾うこともせずにまっすぐ家へと帰った。頭の中はずっと赤と白でぐるぐるしていた。その日は一日中よく眠れたんだ」
老人は立ったまま私の話を楽しそうに聞いていた。気が付くと私も楽しそうに喋っていた。空を見ると陽がだいぶ高くまで昇っていて、こうもぺらぺら自分語りをしてしまうとは、と赤と白の興奮が猛烈な恥ずかしさに変わって襲ってきた。この町でも恥は積もるのだな、と恥ずかしくて今すぐ違う町に消えてしまいたかった。
「なんだかつい喋りすぎてしまったな」
ともう泣きたい気持ちで照れていると、
「どうです? 人に話すと心は軽くなるでしょう?」
と老人はやはりすべてを見透かしたように言った。
「ああ、なんだかそんな気がするよ」
私がそういうと、人間なんてそんなものです、と老人は嬉しそうに笑っていた。
私と老人はしばらくの間無言で太陽が昇っていく様子を見つめていた。時々、人々の笑い声が私と老人の間を掠めたりしたが、何も感じることはなかった。泣き声も、喧騒も、今の私には痛くも痒くもなかった。
太陽が一番高くなった頃だろうか、それでは、と老人がいきなり大きな声を出して、勢いよく傘を広げた。傘は私にだけ差されていた。私の周りだけ一瞬にして夜に変わり、一切の音が無になった。心の軽い今ならば眠れると思った。
「どうです。傘を差す仕事も悪くないでしょう」
と老人は胸を張り誇らしげに笑った。きざな奴だと思ったが悪くない仕事だとも思った。そのまま立ち去ろうとベンチを立つと、いつかあなたも傘を差せる人間に、と広げられたままの真っ黒な傘を渡された。
私はこの日から一か月もの間、夜に眠ることができた。