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夜の夢こそ  作者: 夜久刹
7/11

よくいる酔っ払いとして

「へえ、今の時代はそんなことで金を稼げるのか、私もそこらの店で傘を買ってきてやってみようかね、その仕事」


 老人はふふと笑い、徐に傘を閉じた。傘を深く差していた時は表情なんて見えなかったが、月の光に照らされてみると笑い皺が大木の年輪よりも深く刻まれた、なんとも優しそうな顔立ちだった。


「仕事と言ってもお代をもらって傘を差しているわけではないのですよ。だってほら、これで生活していくにはあまりにも客が少ない」


 老人は自虐的に首を左右に振って見せたが、そもそも傘を差す仕事がわからない私には愛想笑いを返すこともできず、固まって、少しだけ酒の酔いが醒めた気がした。


 老人はそんな私の様子を気にするでもなく、また真剣になって、せっかくのご縁ですからあなたのお話をお聞きしましょう、と酒を飲んだ酔っ払い特有の接続のない言葉を発した。


「お爺さん、さては私以上の酒飲みだな。真面目に言ってみても話の辻褄が合わないんじゃ、会話にならないよ。私は酔っぱらっている人間は好きだが、話の通じない酔っ払いは気分じゃない。お爺さん、あんた、まさか素面でいるわけじゃないだろうね、もしそうだというなら、あんた本物だよ」


「ええ、お酒なんて一滴たりとも飲んじゃいませんよ。お兄さんは私の傘を差す仕事がもう少しで死の床につく老人の世迷言だと思っているのでしょうが、私はいたって真面目で、しかも素面でこの仕事をしているのです。どうぞあなたのお話を……」


「ほう、それは申し訳ない。けれど、本当にそんな仕事があるならなおさらその仕事に興味がある。私の話なんかよりも是非その仕事について詳しく教えてもらいたい」


「ええ、それは構わないのですが、そうするにも、やはりお兄さんの話を聞かなければならないのです」


 老人があまりに引き下がらないので、一旦私が折れることにした。


「そうか、それなら仕方がない。だが、私の話と言っても、私の何を話したらいいのか」


 私は困って煙草の煙を一つ燻らせていると、老人はのっしりと私の顔を覗き込んで、ほら、あるでしょう。と核心を見抜いたように言った。確かに、あるでしょう、と言われてみると老人に話すべきことがあったような気がしてくる。心の奥底で平伏していた醜い部分がざわざわとする。


「堂々と話すようなことではない気はするが、最近、夜に眠れないんだ。今の私には朝も昼も夜も、生活のすべてがこの一言に詰まっているわけだが、こんな些細なことで良かったかな?」


 老人は、ええ、と一度ゆっくり頷いた。それから、どうして眠れないのですか、と訊いた。


「それが私にもはっきりとしたことがわからないんだ。わかっていたらここまで苦労はしていないだろうね。でも、そうだな、心当たりがある、と言えるほど明確なものではないけれど、人の笑い声が聞こえたときと言おうか、泣き声でもいいんだけど、もちろん喧騒だっていい。そういう人の生活から生まれる音が私を掠めたとき、無性に辛抱がならなくなる。見上げるほどの焦燥の大波が迫ってくる。なぜだか怖くなるんだな。ああ、きっとそういった恐怖の一つ一つが神経衰弱として私を眠れぬ体に変えているのかもしれない」


「人の生活は怖いですか?」


「いやいや、全く逆だよ。私には人の営みというやつが尊く思えて仕方がない。けれどどうしてだろうか、いざその中に自分も入っているのだと思うと、とてつもない置いてけぼりを食らった感覚になるんだ。もう、追いつけない気がしている。

 人の営みと言っても何も特別なことじゃなくて、買い物袋を手に提げた老夫婦だとか、大きすぎるランドセルを背負った少年が自分の背丈の倍近くある雑草を持って駆けている姿だとか、腰を直角に曲げてバスを待っている老婆の痛ましさだとか、喫煙所で汗を拭うサラリーマンの姿も、両親に手を引かれてはしゃぐ子供の愛おしさも、朝一緒に目覚める恋人の愛し愛されも、この一見普通な生活が私には眩しい。

 私も遅れを取らぬよう何か一つでもと、よくいる酔っ払いとして店主に暴言を吐いてみたりもするんだけど、結局ただの三文芝居になってしまう。素面なんだな、酒をいくら飲んでみても素面なんだよ。本当に酔っぱらったことなど一度もない。眠れない理由についてはやっぱりわからないし、けど、あまりに尊い人の営みが逆説的に眠れぬ私の姿であるように今は思う」


 短い沈黙の後、老人は持っていた傘を杖のように地面について立ち上がった。木々の間から漏れ出た陽光が老人の頬を照らした。また眠れぬまま朝は来ていた。


「きっと、いつかは眠れますよ」


 老人は楽観して言った。立ち上がったまま太陽に向かう老人は陽が高くなるにつれて頭の端から足の付け根までだんだんと照らされていった。老人は陽光に目を細め、笑い皺が深くなる。朝が来たのが心底嬉しそうだった。そんな煌々と輝く仏様みたいな老人を見ていると、私もいつか、まともに眠れるような気がしていた。


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