晩蛍
私は一度、ゆっくりと首を振った。
「悪かったよ。そういうつもりで言ったわけじゃない。そもそもこの家には金目の物なんて何一つない。盗人だなんて端から思っていないよ」
「まあ、いじわるですね」
池に水粒が落ち、女の瞳に写る枝垂れ柳がぼうと流れた。女の言う通り、女が何者であるとか、どうしてここにいるのだとかは些細なことに過ぎないのだ。他人を知ろうとしたところで、結局腸を覗き見ることなどできない。
「しかし、重要なこともわかったものではない気がするのだが」
女はええとだけ答えて、胡坐をかく私の膝にその小さな頭を乗せた。依然として女は池にかかる柳の波紋を見ていた。陽の光が女のうなじに差して、きめ細かな白い肌が浮き彫りになる。私は息を呑んだ。
「一つ思い出したことがあるんだ。今までが記憶喪失だったってわけではないけど、どうでもいいことはよく覚えていなかった。その中で一つ素敵なことを思い出した。君は蛍を見たことがあるかい?」
女は私の膝に顔を埋めたまま、いいえと小さく言った。
「あれは星がきれいな夜だった。雑木林の真ん中、膝下ぐらいまで草が鬱蒼と伸びていて、傾斜に合わせて寝ころんでいる。小川がちょろちょろ流れて、鈴虫の合唱が五月蠅いくらい頭に響く。これでは眠れたものではないなと思った。だというのに、それがなぜだか嬉しくてね、素敵な世界に生まれ落ちたものだ、なんて思ったりもしてさ。しばらく目を瞑ってそのまま横になっていた。――ふと目を開けた。星が降ってきたと思ったよ。眼前いっぱいに光の粒が舞っていて、手を伸ばせば届いてしまいそうだった……」
「それが蛍だったんですね」
「そう。あれが私の中で一番素敵な記憶かもしれない。君にも見せてあげれればいいのだけど……」
私は池の周りを飛び交う蛍の姿を想像した。光の粒が右へ左へ、池の水面に映る自分の姿に驚いては上へ。柳の間を縫って飛んで、枝垂れた先に停まっては羽休め。また飛び立ち、今度は光の粒が一つから二つへ、二つから三つへ、三つから四つへ、そうして池が埋まるほどに増えて鈴虫まで合唱を始める。膝に埋まる女の瞳を覗き込むと無数の光の粒が確かに舞っている。きっと同じものを見ていた。
女は今までの静かだった調子を一段張り上げて、
「今度その場所まで連れて行ってもらえませんか」と言った。
「もちろん。と言いたいところなんだけど、生憎その場所がどこなのかまでは思い出せなくて……、ごめんよ」
私は申し訳程度に女の頭を撫でた。女は猫が飼い主に撫でられて気持ちよさそうに頭を押し付けてくるように、私の撫でている手に頭を押し付けてきた。手を離すと寂しそうにこちらを一度見て、わざとらしくむすっと膨れていた。
「嗚呼、素敵なことを思い出したら急に眠たくなってきたよ。今なら眠れるかもしれない。このまま眠ってもいいかな、良ければ眠りに落ちるまでここにいて欲しいのだけど……」
澄まして言ってみても、何を求めて女を引き留めたのか曖昧だった。決して人肌や一時の欲の感情に流されたわけではない。それだけは信じてもらいたい。
「もちろん、ずっとここにいますよ」
女はそう言うと私の首に腕を回し、上体を起こしてそのまま接吻した。この世のものとは思えぬ冷たさと柔らかな唇の感触が残った。女は不器用な笑顔で微笑むと、また膝に頭を埋めた。私はそのまま眠りに落ちた。