繋がれた手
「私にあなたを感じられる器官は、もう、ないのです」
そっと添えられた静かな声と、女の氷のように冷たい手が私の右手を包み込んだ。どうしても怖いと言った私の手を両手で包み込み、震えていた。
涙で滲んだ瞳を私に向け、寒くなどないのです、と言った。わかっている、と私は言った。女は私の手を一層強く握り込んで、寒いのです、と言った。わかっている、と私は言った。
女はしばらくの間手を強く握りしめ、私の瞳を、瞳の奥を見つめていた。やがて私の膝に顔を埋めた。
「あまり、他人様にお話しするようなことではないのですが、あなた様には知っていただきたく……、どうして私がここにいるのかを、これまでの人生を……」
女は、聞いていただいても聞いていただかなくてもそのどちらでも構いません、と私の膝の中でぞくぞくと震える手を祈るように結び、話を続けた。
「私がこの町に来たのは十六になった夜のことです。母に手を引かれ、石ころの高さほどのお金で売られたのです。こんなものじゃ割に合わないと怒っていた母の顔を今でもよく覚えています。随分と昔の話です。今更腹など立ちません。
私を買い取った男はいくつかの仕事の中から好きなものを選ばせてくれました。体を売るものから家の掃除係まで、私の容姿をひどく気に入ったようで、男は掃除係になることを強く進めてきました。綺麗な私を穢れなしに保存しておきたかったのでしょう。下賤な下心です。
どうせすぐに死んでしまおうと思っていたものですから、皆が望むこの体を、小石程度の価値しかない私を、できる限り汚して雲の上の神様に見せつけてやろうと、体を売ることに決めました。決して投げやりになったわけではありません、絶対の意思を持って決めたのです」
女は噛み締めるように一つ一つ言葉を紡いだ。女は自分の半生を語り、私はそれに時々頷いたり頷かなかったりしながら、できる限り女の苦しみを受け止めようと、一瞬の瞬きもやめて話を聞いていた。
膝の中にいた女がむくりと起き上がり、また、私の手を握るとぞくぞく震えだした。
「私は毎晩幾人もの殿方と体を重ねました。怖いだとか、汚いだとか、気持ち悪いだとか、そんなことは一切思いませんでした。やはり、この先に死があると思うと、それ以下の苦痛は感じないようでした。
ですけど、一年近く働いた頃でしょうか、この界隈での私は持ち前の容姿で人気を博しており、お店には私を求めて列ができる程です。皮肉です。皮肉のつもりでした。穢れた体でもよいのだと結婚を申し込んできた殿方は一人や二人ではありません。毎晩私に会いに人が並び、体を重ねるたび、月のように美しいなどと、愛しているなどと、全く虫の良い話です。
今までそんな言葉をかけていただいたことなど一度もなかったものですから、すっかり死ぬのをやめて、毎晩「愛している」を貪るようになりました。私には何故だか途方もない借金がありましたから、行為が終わった後に、――借金があっても愛してくれますかと思い切って言いますと、殿方達は渋い顔になってもちろん、と言うのです。次の日の朝には綺麗さっぱり消えています。
消えてしまうだけならまだ良かったのです。この界隈狭いもので、私に「愛している」と体に触れたその手で、次の日には違う女性の体に「愛している」と触れているのです。触れられた同業の女性はこれが仕事だと言いました。愛している、の価値はそんなものだと言ったのです。
私はそれからというもの、何に触れて来たのかわからない人の手というものが本当に怖く、欺瞞で満ち、それでも「愛している」の虜になってしまった私はその手で愛想を振りまき続け、人の歓ぶことに手を差し出し、そういった私の手が他の人の手以上に恐ろしいもののように思ったのです。私の穢れた手が、他人の、何をしてきたのかわからない手と結ばれるのが、本当に怖いのです」
私は繋がれた女の手をいつかのようにじっと見つめながら、震えは止まらぬものか、苦しみを少しでも緩やかにしてやることは出来ぬものかと手段を探した。
――寒くはないだろうが、やはり、寒いだろう。私はそう言って、右手で女の手を握り、左手で羽織っていたカーディガンを女にかけた。女は微笑まなかった。