月よりは美しい
「うつし世の月など疾うの昔に見飽きましたわ。上弦でも下弦でも、美しいことに変わりはなく、新月さえも美しい。満月の夜には、屋根に上り、雲間が朧になるまで眺めたものです。しかし、そんな月でさえ見飽きてしまったのです。もう満月の夜に、屋根に上ることもありません。
人間だれしも廃れゆくものですから、こうして永久に変わらず、夜の私たちを照らし続ける、月という存在に憧れてしまうのは必然なのでしょう。ですが、いつ何時でも美しいというのは、正直、迷惑な話なのです。今まで私と体を重ねた殿方は皆、今夜の月と同等にあなたは美しい、というのです。
ひどい言葉だとは思いませんか? 私は老い、廃れます。古びた本のようにです。黄ばみ、破れ、解れ、文字は滲み、湿気で紙はヨレヨレ。そんな本のようにです。月のように美しくあれるのは、ほんの一時のみ。永久に変わらない月と同じにされては一時の私しか愛せないと言われているようです。
――実際そうでした。殿方達は私に多額の借金があることを知ると、次の日には、残り香の一煙すら残さずに消えるのです。毎度大海原に投げ捨てられた小石の気分にさせられます。月と同等に美しくても永久に愛してはいただけないのです」
障子戸を背に、庭が良く見える廊下に私と女は並んで座っていた。
やっと永い繰り言を噤んだ女は私の膝あたりにそっと手を置いた。薄紅色の唇が光に熟れて、真黒な瞳が、止水に葉が落ち何重にも折り重なって波を寄こすように、そっと揺れた。一本にまとめられた純黒の髪が、これまた女の動きに合わせてそっと靡いた。
――月よりは儚い存在であるなと思った。
夜が明け、朝の陽のつれづれが物凄い勢いで、風よりも早く、音よりも早く、黒ずんでいた地面を一遍に温め始めた。私は目を閉じてじっとしていたが、このつれづれがあまりに早いものだから、遠い自意識の淵でついに、また、来たのだな、と憂慮に驚いていた。私はほんとうに遠くの方で驚いていたわけだが、さすがに私より敏感に、そして逞しく生きている鳥なんかは見事に驚いて、甲高く三度鳴いた。
すると、唐突に女が、
「もしかすると、あなた様はずっと眠れていないのではありませんか」と言った。
私は胡坐を掻いて、首を落としていたので気が付かなかったが、春のそよ風に誘われて顔を上げると、暁光の光芒が私の瞳をすっと焼いた。
私は首だけで女の方を向いて、
「嗚呼、もう二日も眠れていないようだ。さっきまで見ていたはずの日の出が、また登り始めた。まったく見事なまでの日の出だよ。昨日だって同じものを見ていたはずなのに、今日の方がずっとうんざりしている」
私がそう言うと女は両手で口元を抑え、ふふっと笑った。私も合わせるようにして少しだけ笑った。
「眠ろうとはしているんだ。しんどいくらい眠くもある。布団に入って目を瞑る。そうする内、瞼がぴくっと痙攣して、心臓がこの世のものではないほど強く速く鼓動する。怖くなって、最近は目をまともに瞑ることもできない。まったく、とんでもない体になったものだよ」
今度は私がふふと笑った。女も合わせるように少しだけ微笑んだ。
「私の体は得体のしれない何かによって蝕まれているようなんだ。未だにその正体は見えなくて、ただ、どす黒い不吉な塊が、血液の一部となって全身を巡っている。おどろおどろしい不思議な塊で、眠りにつく瞬間にだけ決まって現れる。夜が怖い。眠るのが怖い。これだからこころに不祥のある大人はいけないね。小麦畑のまだ青い稲を、踏んで走り回れる子供であるなら、眠れないということもないだろうに……」
私は徐々に高くなる太陽を視界の端で感じながら、女の方へと振り返り、太陽とは反対にひっそりと浮かぶ月を眺めた。
「夜に眠れる君に、毎晩月が昇って沈んでいくのを眺めなくてはいけない、この永遠とも思える苦痛を、――眠れぬ病の本当の痛みがわかるだろうか。眠れぬ病は君が知っているどんな病気よりもつらいものだよ」
女は、ええ、その通りかもしれませんね、と小さく頷き、
「でしたら、朝は眠れるのですか?」
と訊いた。私は困ってしまって右手で頬を搔き、今度は女の方から太陽の方へと向き直って、
「眠るには、朝は眩しすぎるよ」と、眠さで半分しか開かない細い目をさらに細めながら言った。
ふと女を見ると、私を真似て目を細め、顔中しわくちゃにしながら太陽の光芒を追っていた。なぜ女が私の真似をする必要があるのかわかりかねたが、その必死な形相は、つつじの花を見たときにずっと愛でていたいなと思うのに同じく、可愛らしいなと思った。
私の視線に気が付いた女があっと驚き、赤くなった頬に手を当てて恥ずかしそうに笑う。静かに「暗鬱なものですね」と言った。どこか嬉しそうな声色だった。