何を望む
ミオは3年勤めた会社を辞め、行き場をなくしていた。次の職場も見付けられないまま、貧弱な精神に限界がやってきたのだ。逃げるように会社から這い出し、行く宛もなく社会の中をさ迷い歩く幽霊。今の彼女はそんな状態であった。
今日も1件の面接を終わらせ、スーツ姿で電車に揺られていた。窓から見えるのは、雲ひとつない1月の晴天と、新年から忙しなく動いている町並み。今のミオには不釣り合いなものばかりだ。目に写る景色には何の色味もなく、ただただのっぺりとして見えた。
手元のスマホが震え、友人のサキからメッセージが届いた。
『就活は順調? 今日はちゃんと面接できた?』
ミオは昔からサキのアドバイスの通りに行動してきた。サキは頭がよく子供の頃から成績優秀で、一流大学を卒業した後は大手企業に内定を貰い、順調にキャリアを積み重ねている。来年には結婚の予定もある。彼女の言うことにはいつも説得力があり、言う通りにしておけば間違いなかった。
『たぶん。でも、あんまりいい反応じゃなかった』
『やっぱり、会社辞めてから次探すんじゃダメだね。医者からストップかかったから仕方ないけど。ミオの場合、もっと積極的にいろんなところへ履歴書送らないと無理だよ。何も持ってないし、転職2度目だし、大学だって良いとこ出てないんだから』
ミオは返す言葉も見付からなかった。サキは本当のことなら包み隠さず何でも言う性格だ。そこがたまに苛つくが、正論なので何も言い返すことはできなかった。
『でも大丈夫。私の言う通りにしておけば間違いないからね』
ミオは会社を辞めてからというもの、彼女のアドバイス通りに休みなくノンストップで動き続けていたが、正直なところ、もう何もしたくはなかった。一度立ち止まって休む時間が欲しかった。しかし、金銭的な問題と謎の空白が履歴書にできることを恐れていた。そして何より、自分の下す決断に自信が持てなかったのだ。自分で自分が信用できない。何故ならサキより頭が悪いから。そんな考えが彼女の頭を支配していた。自分より出来の良い人間のアドバイスが間違っているはずがないと。
『そういえば、この前おすすめした映画は観た?』
ミオは居たたまれなくなって話を逸らした。
『観たけど、全体的にふーんとしか。正直特に刺さらなかった。海が出てくるシーンがありきたりだし、何番煎じだよって感じ。主人公が馬鹿すぎて人生うまくいかないところは、ギャグとして点数高かったかな』
『やっぱ賢いサキには刺さらないか~』
スマホを握る手に、微かにだが力がこもった。ミオはそのことに気付いていない。視線を画面から後方の車窓に移し、何かを誤魔化すように流れる景色を見つめ続けた。
ふいに、視界に空とは異なる真っ青なものが飛び込んできた。海だ。午後の太陽の光を浴びて、キラキラと輝く海が目の前に現れたのだ。
――海だ。綺麗……
「あれ? どうして海が?」
「次は、夕凪浜。夕凪浜です。お出口は右側です」
その時、自分が乗る電車を間違えていたことにはじめて気が付いた。
――降りなきゃ。
ミオは慌ててスマホをポケットに押し込み、バッグを肩に掛けてドアの前に立った。
夕凪浜駅には誰もいなかった。一体いつの間にこんないなか町まで来てしまったのか、どうしてここまで来る途中で気が付かなかったのか不思議でならなかったが、それ以上にミオは車窓から見えた真っ青な海に心惹かれていた。上りの電車が来るまで1時間と20分。彼女は目の前に広がる浜に下りてみることにした。
手入れのされていないゴツゴツとした岩場ばかりの海岸をヒールの付いた歩きにくいパンプスで気を付けながら歩く。波がかからないギリギリのところに付き出した岩の上に腰を下ろすと、ふぅとひとつため息をついた。
まっすぐな水平線に、透き通った青空。寄せては返す波が岩場に打ち付けられ、心地よい音を奏でている。
思えば、何もかもが中途半端で、空っぽだった。平凡な大学、平凡な会社。その会社にすら溶け込むことができずに2度も逃げ出して、行く宛をなくしている自分。考えれば考えるほど恐ろしくなり、ミオは思わず両手で自身の体を抱き締めた。
彼女は両親や周囲からも結婚や子供を望まれ、指摘をされる歳頃だ。しかし、どれも手にしていないばかりか、失ってばかりの人生だ。世間一般から見ればもっと頑張らなくてはいけない存在なのだろう。しかしミオはそんな自分を自覚し、受け入れていた。それでいて不幸だとも思っていなかった。ただ、漠然とした不安と罪悪感だけは払拭できずにいた。頭の奥の奥まで染み込んだ常識と期待は、彼女の腕をがっちりと掴んで離さなかったのだ。
――私、どうしたいんだろう。何を望んでるんだろう。
よくわからなかった。自分がどうしたいのか、どうなりたいのか。頭の中に靄がかかったような気がして、先のことがうまく考えられなくなっている。あるのは不安に包まれた「今」だけだった。
それでもなんとかぼやけた頭をフル回転させて、将来について考えてみる。
次の職場はどんなところを探せば良いのだろう。やっぱり正社員でないと駄目だろうか。また精神的な不調に陥るかもしれない。そもそも雇って貰うにはどうアピールすれば良いのだろう。サキのアドバイスに従っていれば成功するだろうか。
職場を確保したら皆と同じように結婚するべきだろうか。その為には異性と出会わなければならない。職場に気の合う人はいるだろうか。それともマッチングアプリか、イベントに参加するか、どれが良いだろう。すると次は子供だ。子供は何人作れば良いのだろう。1人作れば次も期待されるだろうし、やっぱり2人だろうか。健康に産むことはできるのだろうか。次は、その次は、その次はどうすれば――
頭が破裂しそうになって、足元の波に目を向ける。最も嫌な考えが脳裏に過った。
もし、これらがすべて達成できなかったとしたら、周りはどんな目で自分を見るだろう。どんな最期を向かえるのだろう。
海はまるで呼吸をするように、何度も寄せては返すを繰り返している。何度も何度も、規則正しく、同じように。
入ってみようか。
ふいにそんなことを思い付いた。最高に狂った思いつきだ。ミオはパンプスを脱ぎ、鞄とスマホを岩の上に置いて、ざぶざぶと水の中に入った。水はひどく冷たかった。それでもお構いなしに足を進めた。不思議なことに、足を進めるごとに爽快感が込み上げ、気分が良かった。思えば、久々に自分の意思で何かをしているような気がした。水位が胸の辺りまできたところで、後ろを振り返った。岩場に置いてきた靴と鞄がまるで豆粒のように見える。まるで馬鹿げているが、それを見た瞬間、得体の知れない達成感のようなものが込み上げてきて、ミオは更に足を進めた。
「たすけて!」
ふいにそんな声が前方から聞こえてきた。よく目を凝らしてみると、堤防から落ちた子供が溺れていた。
一瞬たりとも迷わなかった。ミオは子供のいる方に向かって一直線に泳いでいった。中学まで水泳を習っていた為泳ぎに自信はあったが、自分でも信じられないほどのパワーが出て、あっという間に子供の首根っこを掴むと、足のつくところまで連れていってしまった。頭の奥が痺れ、駆け付けた人たちの声すらよく聞こえない。身体はひどく冷えきっていて、今にも心臓が止まってしまいそうだった。
「大丈夫です。もう大丈夫ですから」
彼女はそんな言葉をうわごとのように繰り返していた。
それから1週間後、ミオはまだスーツ姿で電車に揺られていた。履歴書を何度も読み直し、面接で訊かれるであろう様々な質問に頭の中で回答していく。
手元のスマホが震え、サキからメッセージが届いた。ミオはその通知にだけ目線を落とすと、そのまま右に向かって勢い良くスワイプした。