6話・砕け散った恋は
ザック曰く、偉そうに見えるにはコツがある。相手に好かれようと思わないことと、必要以上に相槌をうったり返事をしたりしないこと。
皆から王女として愛されなければならない、認めてもらわなければならないと思っていたレヴィナにとって、それは全く新しい試みだった。
昔から嫌いだった夜会も、それまでに楽しみがいくつかあると思えばなんとか耐えることができるようになった。
例えば靴ひとつとってもデザインから素材まで自分の好みに仕上げることで、それを履く楽しみができる。オシャレを思う存分に堪能できるのは、王女の特権のひとつだ。
そしてそれを選ぶとき、必ずザックが一緒に居てくれた。
彼の評価はやや辛口だが、皆のようにただお世辞で誉めるのではなく本音で話してくれるので、彼の言葉を心から信用することができたのだった。
レヴィナは自分の似合う物の選び方を知ったお陰で、どこに出ても恥ずかしくない程度には自分を魅せる術を学んだ。
レヴィナの劣等感を理解して、飾り言葉無く本音で話してくれる。誰よりも頼りになって信じられる。他の男性のように口調も所作もがさつなところがない。
そんなザックをまだ若いレヴィナが好きになるのは、あっという間のことだった。
でもレヴィナはその淡い片想いをすぐに叶えようとは思わなかった。ザックはレヴィナよりもずいぶん年上、自分のことを親戚の娘程度にしか思っていないことはわかりきっていたから。
ただ今はなんでもない会話に胸を弾ませて、灰色の瞳に自分の姿が映るだけで充分だった。
けれど。
「可愛いでしょう?レヴィナはいいお嫁さんになるわよー」
「ああ。ずいぶん垢抜けたな。
だがあの偉そうな態度はなんとかならないのか?あれじゃあ嫁になる前に結婚話から遠ざかるぞ」
「レヴィナはあれでいいの。あの子根が優しいから、あれくらいしないと舐められるもの。
それに少々我儘で取っつきにくい方が可愛いじゃない」
「まったく、そんな自分好みに仕上げて・・・。
お前が嫁にもらうつもりか?」
「まさか、あり得ないわよ」
たまたま通りかかった部屋の前で、レヴィナは偶然にもザックのその言葉を聞いてしまった。
――――――“あり得ない”
こうしてレヴィナの初恋は、あまりにもあっさりと砕け散ってしまった。
恵まれた環境で育ったレヴィナにとって、あんなに辛い思いをしたのは初めてのことだった。
息が出来ないほど苦しくて、心臓が粉々になってしまいそう。死にたいわけではないが、このまま静かにこの世からいなくなってしまいたい。初めての恋は、苦しみと後悔しか残らなかった。
レヴィナそれ以降、男性は極力避けるようになった。もう二度とあの苦しみを味わなくていいように、と。
なのに、結局同じことを繰り返す羽目になるとは。
レヴィナは暗闇の中で膝を抱え、深く息を吐きながら丸くなった。
砕け散ったはずの恋なのに、心の底ではまだまだ燻っていたらしい。
夜会の後手を引かれたことも、抱き抱えられたことも、舞い上がっている自分が居たのは否定しようのない事実。
そしてその後あの言葉で、二度目の失恋を味わう羽目に。
前回と違うのは、ザック本人に恋心を知られてしまったことくらいだろう。
同じことを繰り返しただけだというのに、失恋の痛みは相変わらずレヴィナの心を情け容赦なくズタズタにする。
もうこのまま仕事を放り出して帰ってしまおうか。
そうすればザックと会わずに済むし、父親にはちゃんと謝ればレヴィナが怒られることもない。
ずっとここに閉じ籠っているわけにはいかず、レヴィナは立ち上がろうと床に手をついた。
しかし震えている身体は思うように動かず、彼女は早々にここから出るのを諦める。
レヴィナは泣くのが嫌いだ。泣けばもっと惨めな気分になるから。
目頭が熱くなっても、下唇を噛んで涙を堪える。これ以上悲しみに浸るのは耐えられそうになかった。
このままそーっと蒸発するように消えてしまいたい。痛みもなく、意識もなく。
それくらいしか苦しみから逃れる方法が思い浮かばないレヴィナは、自分の愚かな考えに苦い笑いを溢す。
いっそのこと王女の身分を捨てて、平民として新しい人生を生きれば良い。しかしそれが出来ないのは、王女としての贅沢な生活から離れられないせいだ。食事も身に付けるものも、今当たり前にできることができなくなるのは到底考えられない。
こういうとき、レヴィナは思い知る。本当に自分は甘やかされた根性なしだと。
また前みたく傷ついた心を抱えたまま、時を経て痛みが和らぐのをただただ待つしかない。
ただその痛みがいつまで続くのか、また同じことを繰り返すのではないか、それはレヴィナには見当がつかなかった。
そのとき。
ガチャッ、と静かに扉が開く音がして、飛び上がりそうなほど驚いたレヴィナは大きく身体を震わせた。
ガチガチに固まって息を潜めていると、突然視界が明るくなって目がチカチカする。
「やっぱり居た」
最悪の展開だ。よりにもよってザックに見つかってしまうとは。
「・・・なんでわかったの」
ここは滅多に使われない客間のクローゼットの中だ。誰にも見つからないよう慎重に考え抜いた場所なのに。
「レヴィナが隠れそうなところなんて大体わかるわよ」
「・・・」
気まずいし何を話せばよいかもわからないレヴィナ。
このままリズが探しに来るまで無視してやり過ごそう。そしてさっさとドローシャに帰ろう。
意を決したレヴィナは丸めていた身体をさらに小さくして、俯いて全く動かなくなった。
行方不明になったレヴィナはあっさりと見つかった。このお姫様は人の気配がない、暗くて狭いところを好むのをザックはよく知っていたから。
「やっぱり居た」
クローゼットを開けるとレヴィナは膝を抱えて座り込んでいた。
眩しさに顔をしかめ、ふいっと視線を明後日の方へ向けて口を開く。
「・・・なんでわかったの」
全く感情のない淡々とした声でそう言ったレヴィナ。
「レヴィナが隠れそうなところなんて大体わかるわよ」
返事はなかった。
「謝っても許してはもらえないと思うけど、無神経なこと言って本当にごめんなさい」
レヴィナは口も開かず目線も合わせない。
彼女は怒ったり拗ねたり自分の意に沿わないことがあると、大抵我が儘の応酬で対抗してくる。無視とは全く新しいパターンだ。
ザックはレヴィナのことを誰よりもよく知っているつもりだった。彼女の性格も王女としての苦しみも理解して、自分が育てたつもりになっていた。
しかしそれは大きな驕りだ。
全然わかっていなかった。それどころか、自分の配慮に欠けた言動でレヴィナの心を傷つけてしまった。
ザックは今更に気づいて猛省する。
再び口を開こうとしたが、遠くからレヴィナを呼ぶリズの声が聞こえたので、クローゼットに入って中から静かに入り口を閉ざした。
中は薄暗く、なんとか表情が確認できる程度。
ザックはレヴィナの前に座り込むと、同じ目線まで屈んで話しかける。
「さすがにもう、何も話してはくれないわよね」
昔からレヴィナが隠れているとザックが見つけて、その度に二人はたくさん会話を重ねてきた。家族には話せないような内容でも、不思議とこの暗い空間では本音を交わすことができたのだった。
しかしもう、それは終わりだろう。レヴィナが閉ざしてしまった心を再び開く自信はない。特に“あり得ない”などという言ってはいけない言葉で彼女を傷つけてしまったザックには、その資格が自分にないことをまさに今思い知っているところ。
本音を交わすことができないならば、せめて普通に会話する仲に戻りたい。ザックの我が儘かもしれないが、今後一切の付き合いがないというのはなんとしても避けたかった。
当然ながらドローシャの王女であるレヴィナの方が目上、彼女が拒否すれば二度と会うことも叶わないだろう。
「償えるとは思ってないの。だけど、何かできることはないかしら。
気が済むまで思いっきり罵倒してもいいのよ、いくらでも聞くわ」
レヴィナの視線の先は彼女の立てている膝辺り。
返事はなくてもザックは諦めずに続ける。
「いつものように我が儘を言ってもいいのよ。
いつもランス殿下に言っているように物をねだってもいいし、レオナード陛下に言っているようにして欲しいことがあったら。
そういえば夜会で硝子の靴が壊れたのよね。今度新調しに行きましょう。今度はヒールが折れたりしないよう、もっと丈夫なものにしましょうね。また怪我したら大変だもの。
ランス殿下に頼めば前よりもっといい素材を仕入れてくれるかも」
往生際が悪い。第三者が居れば、そう思っていることだろう。
それでもザックは許しを得るまで喋るのを止めるつもりはなかった。突然レヴィナがふと笑って、「硝子の靴はもう嫌よ」って言うんじゃないかと淡い期待を抱いていたから。
ずるいということは重々承知しているが、元の関係に戻るには一連の流れはなかったことにするしかない。
政治の世界、酷だがいろいろなものを背負った立場では、そうするのがザックにとっての精一杯だ。そしてレヴィナに対しての、精一杯の思いやりだった。
「ランス殿下といえばこの間お会いしたのよ。何故か彼、塩の大袋抱えてて笑っちゃったわ。あっという間にどこかへ行ってしまったから、声をかけることもできなかったけど・・・。
あと、夜会でお会いしたディーン殿下のことだけど、彼は今朝お帰りになったから大丈夫よ。ほんと油断も隙もないわよね。とてもいい人ではあるんだけど」
ぽそり、とレヴィナが何かを呟いた。
「なあに?」
その声はあまりにも小さくて、なんと言っているのかザックには聞き取れない。
「ひどい」
震える唇から漏れ聞こえた震える声は、今度はしっかりと言葉として聞き取れた。目線は未だに合わせてくれないが、再び開いた口から言葉が紡ぎ出される。
「・・・・そんなの、ひどい」
ザックは固まって声ひとつ出せなくなる。
ああ、また言ってはいけないことを言ってしまったのか。そう理解したのは、レヴィナの瞳からポロポロとこぼれ落ちる雫に気がついた後だった。
「ひどい、・・・ずっと好きだったのに」
なかったことにするなんて、一番狡くて酷いやり方だ。
小さく丸めた体を震わせて、表情を大きく歪めることなく静かに涙を流すレヴィナ。
ザックは雷に打たれたような衝撃を受けた。こんなに大きなショックを受けたのは、生まれて初めての経験だった。
――――――こんなに可愛い生き物がこの世に存在していたのか、と。
レヴィナが気づいた時、もう二人の距離はないに等しかった。頬の涙は丁寧に指で拭われ、首筋に暖かい息がかかる。
目を見開いた彼女は、座ったまま器用にお尻を使って後退した。ところが離れるどころか前より距離が近づいていて、驚いたレヴィナは力いっぱい後ろに下がる。
しかし狭いクローゼットの中、とうとう背中が壁にぶつかったところでレヴィナにもう逃げ場はなかった。
ゆっくりと手を取られて、指を絡め取られる。服の上から肩に口づけて、もう片方の肩をゆっくり撫でられた。
「怖い?」
怖くはなかった。ただ、何が起こっているのかよくわからない。
レヴィナが呆けているうちにもザックの手はいつの間にか腰まで降りていて、くびれ辺りを優しくまさぐられる。
耳元で小さく響いた水音に、レヴィナは首筋に口づけられたことに気がついて我に返った。しかし正気に戻ったところで繰り返される愛撫に抵抗する術も無く。レヴィナは身体を硬直させてされるがままだ。
そうして行為が次第にエスカレートするうちに、ザックの大きな両手で顔を優しく持ち上げられ、唇は唇で塞がれた。
何度も触れては離れるを繰り返した口づけも、長い時間をかけながら徐々に深くなっていく。
そうしてようやくレヴィナは硬直していた身体から力を抜き、指を絡められていた手を握り返した。
ところが。
クローゼットの外からガタガタと音が聞こえ、ザックとレヴィナは慌てて離れて身を竦める。
「あれ?どこだここ」
二人は驚きに目を見開いて顔を見合わせた。
この声は聞き覚えがある。―――――ハンバーガル卿だ。
ザックとレヴィナはクローゼットから出ると獣の如く飛びかかり、驚きに変なポーズのまま固まっているハンバーガル卿の腕と脚にしっかりと抱きつく。
「あ!レヴィナ様やっと見つけた!
・・・ってなにやってるんですか?」
そして偶然にも通りかかった騎士のリズ。
「「リズ!縄!」」
仲良くハモった二人に、リズは小首を傾げながらヘラッと笑った。