第十五話 溝(2)
幸せだった家庭が目に見えておかしくなったのはあたしが5歳のときからだった。原因はあたしが両親に“似てない”から。お父さんはお母さんが浮気していたんじゃないかっていつも怒ってて、お母さんは全く似なかったあたしを責めた。あたしは子供心にものすごく悩んで、子供なりにお父さんの口調をマネしてみたりお母さんの髪形をしてみたり、まあ今思えばバカらしいけど結構がんばっていた。
しかしそれでも両親のあたしに対する態度は変わらなかった。それどころかどんどん酷くなってきて、あたしの存在を拒否されるようになったのは小学校に上がってから。居場所を完全に失ったあたしは夜の街に出るしかなかった。
繰り返す犯罪、喧嘩、世の中の裏はすべてやり倒した気がする。毎日が荒んでいて、それでも家にいるよりはずっとずっとマシだった。だけど、補導されるたびに家に送り返されて、家出しても子供じゃ生きていくことすらできなくて。結局あたしは、あの家に縛られざるを得なかった。
ものすごく悔しかった。まともに一人じゃ生きることもできない自分が。外では家族の顔をして、中ではあたしを拒絶したあの人たちが憎かった。
学校にも行かず、フラフラと外で暴れては家に連れ戻される。そんな日々が続いていた時、あたしはあの子と出会った。きっかけは中学が一緒だったこと。たまたま困っているあの子を助けたら、何故かものすごく懐かれてひよこのようにあたしの後ろを付いてくるようになった。
『あのね、恵理ちゃんはものすごくかっこいいの』
キラキラした笑顔が正直苦手だった。ドジでふわふわしててものすごく引っ込み思案な子だけれど、誰よりも純粋であたしが全く持っていない清い心の持ち主だったから。不良をかっこいいだなんて浅はかな人の考えだ。偶に居る、悪いことがカッコいいことだと思ってる勘違い野郎が。あたしたちはかっこよさを求めて不良になったわけじゃない。不良の世界は居場所がなくて世の中の理不尽さに心を折って彷徨ってる奴らの吹き溜まりなんだ。
あたしのことをかっこいいと言う百。その意味を履き違えていることに気づいたのは、身体に傷を作っていることを知ったとき。百の小さな身体に残っている傷は、あたしの抱えている傷と全く同じだった。あたしは当然怒った。なんで今まで黙ってたんだ・・・って。
『どうして何も言わねえんだよ!ずっと我慢して、バカだろ!?』
『恵理ちゃん、あたしね、“嫌だ”って言えないんだ』
それがお父さんたちは気に食わないみたい、ってあの子は悲しそうに笑った。百が嫌だって言えないのは、百が優しすぎるからだ。学校にあまり行かないのはあたしだけじゃなくて百も同じ。百は極端に人に気を使い過ぎるため、人付き合いがものすごく苦手らしい。その消極的な性格の所為か家に引きこもりがちだったようだ。
性格が正反対のあたしたち。でもあたしは百の中に、家族に拒絶され戸惑う幼いころのあたしを見た。無意識にあの子とあたしを重ねて、似たような境遇のあたしたちが仲良くなるのは必然だ。人と接することが苦手なあの子のために、学校に行く日は必ずあたしも付いて行った。変な組み合わせのあたし達を周りはものすごく不思議な目で見てたけど、存外気が合う性質だったらしく、百が挙動不審になる度に代わりにあたしが話し、百が嫌がらせを受ける度にいじめっ子たちをあたしが追いかけまわした。
半分あたしが百の世話をしているような感じだったけど、それに救われていたのは百ではなくあたしだ。生まれて初めて誰かに必要とされて、あたしはこの上なくあの子を大切にした。
依存、に近い感情だったかもしれない。それくらいあたしには百の存在が必要で、あの子もあたしを受け入れてくれたからなんとか自分を保つことができた。
『あのね、あたし高校を卒業したら、思いきって独り暮らししようと思うんだ』
『あたしもあの家早く出たいや』
そしてあたしたちは、何よりも“自由”を渇望していた。家の苦しみから抜け出せるその自由を。そして自分の力で生きていける強さを。百は夢見がちなようでトリマーだったりお花屋さんだったり、将来の夢を話すたび内容がコロコロ変わっててそれもまた面白かった。
『恵理ちゃんみたいに、自分をしっかり主張できる強い女の人になりたいな』
『あははっ。あたしはお前みたいに可愛い女の子になりたい』
パッと花が咲くように笑うあの子。あの笑顔を見ることができなくなったのは、両親とのケンカの衝動で家出したあの日。百も一緒に連れ出して、気分転換にでもなればと自然の多い場所を目指していた。
だけどいつの前にかまったく違う場所に居て、異世界に流されたあたしは百とはぐれてしまう。
今どこにいるかわからない、行方不明になってしまった百。心の支えを失ってしまったあたしはどうすればいいんだろうか。
月は雲に隠されてしまったらしく、目を開けても周りがよく見えなかった。風ひとつない静かな夜。小さなヴィラのうめき声に隣を見れば、苦しそうに顔を歪めている彼女の姿があった。長い睫毛に縁取られたその瞳は閉ざされたままで、まだ眠っているのだとわかる。
「ヴィラ、ヴィラ」
名を呼んで軽く揺すれば、ヴィラはゆっくりと目を開いた。そして同時に虚ろな瞳から一滴の涙がこぼれた。焦点の定まらない視線が俺の姿を捉える。
「・・・レオナード?」
「すまない。うなされていたようだから起こしたが・・・」
そっと頬に指を滑らせたがもともと低体温のヴィラの身体は酷く冷たい。涙の痕を慰めるように舌を這わせて拭き取ると、ヴィラはくすぐったそうに目を閉じて身体を捩った。
彼女はまだ脳が覚醒しきれていないのか、眠たそうに声を出す。
「・・・嫌だよレオナード。あたしはここにいるから、奪わないで」
何を、とは訊かなかった。無言で見つめていると彼女は再び口を開いた。
「あの子がいなくなると、あたしどう生きていけばいいのかわからなくなる」
それはこちらのセリフだ。
ヴィラの心を蝕む友人の存在。その女がいる限り、ヴィラは過去に囚われて抜け出せないだろう。いつまで経っても俺を見てはくれないだろう。おかしな話だが、囚われることをなによりも恐れるはずの彼女は、自らその友人に囚われることを望んでいる。どのような育てられ方をしたのか、そうしなければ保てない酷く不安定な精神。
「なぜ俺ではダメなんだ」
何故俺が彼女の心の支えにはなれないのか。
ヴィラを引き寄せると胸の中にきつく閉じ込める。抵抗することもなく彼女は擦り寄って目を細めた。
「あの子は、あたしだから」
その友人がいる限り、ヴィラの心は手に入らない。
食卓を囲んだ2人の空気はいつも以上にピリピリとしていた。ヴィラは食欲がないのか全く口をつけようとしない。以前彼女の態度が豹変したときと同じ状態だ。死んだように眠り、食事をせず、覇気がない。
「なぜ食べないんだ」
レオナードの方は不機嫌さを隠そうともせず、眉間にしわを寄せてヴィラを睨んだ。棘を含んだ物言いに、一瞬ヴィラは身体を竦ませる。返事を返さない彼女にシルヴィオとアルフレットは心配そうな視線を送った。せっかく元の状態に戻ったというのにこれではまた同じことの繰り返し。せっかく戻った体系も、またすぐに痩せてしまうのだろう。
「食べろ」
「いらない」
「食べるんだ」
「いらないったら」
否定の言葉にレオナードの苛々が募る。空気がさらに悪くなってきて、居た堪れなくなったシルヴィオが口を開いた。
「ヴィラ様、陛下の言うとおりです。少しでもいいので召し上がられてください」
「無理、身体が受け付けないんだ」
首を何度も横に振って嫌がるヴィラに、シルヴィオは助けを求めてアルフレットを見た。しかしアルフレットとてどうすればいいのかわからない。
「魔女さん、飲み物だけでも・・・」
「朝飲んだ」
「でも今は夕食です」
昼間だって一滴の水も飲んでいない。このままでは餓死してしまうのではないか。3人の焦りは高まる。
「食べろ」
「嫌だ」
「何故だ」
「食べたくない」
「死にたいのか?」
皮肉を交えて言ったレオナードの言葉に、ヴィラは顔を上げて彼を睨む。レオナードは頭にカッと血が上らせてテーブルを乱暴に叩いた。
ガシャン!!!
と耳をつんざぐ様な大きな音が響いて、ヴィラはビクリと身体を震わせる。
「勝手にしろ!」
怒らせた。
そう気づいた時にはもうレオナードの姿はなく、ただ茫然と彼が去っていった方を見つめるシルヴィオとアルフレットだけが残る。
「あいつが怒ってんの初めて見た・・・」
ぽつりと呟いたのはアルフレット。首を傾げるヴィラに「ああ」と付け加える。
「俺と陛下は同じ田舎貴族の出身で幼馴染みでさ、俺のが年上だからあいつのおしめを俺が変えたこともあるんすよ。常に眉間にしわを寄せてるか無表情かで、まあ、昔っから子供げのないヤツで・・・。なんでも要領よくこなす所為もあるんでしょうが、ああやって怒ったりするような人ではなかったんですけどね」
それだけ魔女さんが心配なんすよ、とアルフレットは力強く頷いた。一方ビビっているらしいシルヴィオは顔を真っ青にして棒立ちのまま。
ヴィラはアルフレットの言葉に耳を傾けながら窓の外をずっと眺めていた。
苛立ちを抑えきれぬまま政務を片づけていると、ルードリーフが執務室に入った。さっそく報告を促す。
「証拠は不十分ですが、祝福の杯の首謀者はほぼカトレア財務長官で間違いないでしょう。ニーナ・カトレアと事件前に接触していたことがわかりました。それから、“デベルジの天使”をベルガラ王国の商人から買っていたことも判明しました。動機はいまひとつわかりませんが、考えられるのはやはりゾロア教かと」
「バカな男だ」
こそこそ行動しようといずれ解ることなのに。失脚することが目に見えていて、それでも王に逆らうなど愚かな。
「現在オルドリッチ宰相殿が必証拠集めに躍起になっています。なにがなんでも彼を起訴したいようですね」
「その必要はない。すぐに処罰しろ」
は?とルードリーフは口を開けたまま固まった。俺の言うこと聞こえなかったわけではないだろう。
「すぐに処罰しろ。勅令を出す」
「ま、待ってください。あまりにも愚行です。証拠も疎かに一政治家のために勅令を出すなど・・・。法の秩序を乱せばいたずらに国民を不安にさらすだけです」
「勅令に文句を言うな。それこそ法の秩序を乱す行為ではないのか?」
ルードリーフは真っ赤になると、頭を下げて執務室を出て行った。
ヴィラへの脅威はすべて排除する。それは友人も異教徒も同じこと。しかし、本当にそれが正しいのかわからなくなってきた。
感情も、なにもかもがぐちゃぐちゃだ。
ヴィラを捕えて自分の手元に置いた。逃げないことを約束させてそれで十分だと思ったのに、心まで欲した俺はどこまでも貪欲で醜い。彼女の心の中に住み着く友人さえ許容できないほど、俺は心の狭い人間だっただろうか。
嫉妬だなんて可愛いものではない。許せない、彼女の中にあるもの全てが。例え黒い感情であろうと憎しみであろうと、ヴィラの心が全て俺であればそれでいいと思っていたのに。例えそれでヴィラが壊れようと、自分のものになるならばそれでいいと思っていた。
全て欲しい。だからヴィラの友人を殺そうと思った。けれどそれではまるで気に入った玩具を無理やり奪い取る子ども。力任せに欲望を満たそうとしても、結局手に入るのはボロボロになったヴィラなのに。
それでは駄目なんだ。
怒ったり叫んだり暴れたり、感情が忙しく活発な彼女を見るのが楽しかった。抱き締めたとき、照れたように笑う彼女が可愛いと思った。眠るとき、擦り寄ってくる彼女がこの上なく愛しかった。
そのままの彼女が欲しい。今までのヴィラでいてほしい。
ヴィラを怯えさせた俺はバカだ。
彼女との間にできてしまった深い深い溝。自分で作った溝なのに、今はそれがとても腹立たしくて苦しかった。