第十話 囚われの身
このままじゃダメだって自分でもわかってる。でも向こうの世界を思い出した時、どうしようもなく怖くなったんだ。いつの間にかここでの生活が当たり前になって、このままじゃずっとここに居座りそうで。――――それじゃダメなのに。
世界地図を見ながら頭を抱えた。注意深く見つめながら、感覚を研ぎ澄ませて魔力を注ぎ込む。しかし何度やっても成功しない。そう、あたしは極端に“占い”が苦手な魔女なんだ。地図を眺めても何もわからない。
「シルヴィオ」
傍に控えているシルヴィオが静かに返事をした。
「少し出かけてくるから適当に誤魔化しといて」
「しかし・・・もう夕方ですが・・・」
「体調が悪くて寝込んでるとでも言っといてくれればいいから」
「畏まりました」
白いチョークを持って地面に魔法陣を描く。ちょうど手を広げたくらいの大きさのそれは、細かい模様と複雑な字で構成されており、描くだけでも一苦労だった。
描き終えると魔法陣の中央に立ち、線の細部まで魔力を注ぎ込む。シルヴィオがこちらを心配そうに窺っていた。
「・・・ヴィラ様、何を・・・」
「大丈夫、すぐ帰ってくる」
バチッと静電気が起こったような音を立てて全身が痺れる。目を開けるとそこは既に城の中ではなく、あたしが生まれ育った町並みがあった。
異世界とこちらの世界を行き来したのはもう3度目になる。前回来た時から1年以上経つが、あんまり景色は変わっていないようだ。普通の町、普通の家、普通の人。できるだけこちらの衣服に近いワンピースとパンプスを選んで来たけど、日本の季節は冬、もう少し厚着してくるべきだった。
目的の地に辿りつくとインターホンを鳴らす。ピンポーンと長閑な音が響いて、ガチャリと受話器を上げるような音がスピーカーから聞こえた。
『はい』
「百さんはいらっしゃいますか・・・?」
『っそんな子、うちにはいません』
ガチャンと乱暴に切る音がして通話が切れる。このやりとりも既に3度目。いい加減に諦めるべきだと思うのに、もしかしたらという期待が足をここに向かわせる。
木森百という友達がいた。引っ込み思案で優柔不断で引きこもり気味だったけど、あたしたちはお互いに問題のある家庭を持った所為か、ものすごく仲が良かった。異世界に飛ばされる前、あたしはいつものように親とケンカになって家を飛び出し、軽い家出気分で百と一緒に田舎の方へ向かっていた。木陰で少しうたた寝している間に異世界へ飛んだらしく、師匠から魔術を学んで世界を行き来できるようになった時。この世界に戻ってきて、初めて百も行方不明になったのだと知った。
・・・百がどこに飛ばされたのかは知らない。もしかしたらこの日本のどこかで家出してるのかもしれないし、あたしのように向こうの世界へ飛ばされたのかもしれない。
百が行方不明になったことを知ってから、あたしは自立して百を探せるように師匠から徹底的に魔術を学んだ。あの子は生活力が無くはっきりと自分のことを言えないから、見知らぬ世界で迷っていたらきっと困っているだろうから。だから、ある程度の知識を身につけたら師匠の家を出て探しに行くつもりだった。なのに。
一番欲しくなかった“家族”ができてしまった。
「恵理・・・?」
聞き慣れた声に振りかえると、そこには3年前より少し老けた母親の姿。ああ、会いたくなかったのにどうしてここにいるんだ。
「なんで・・・帰って来たの!?どうして!?」
金切り声が耳に響いてうるさかった。母親はあたしを見てはヒステリックに泣きだす。それは3年前とちっとも変らない。
「なんで来たのよ!もう帰って来ないと思ってたのに!もう帰って来ないかと・・・っ!」
大きめのバックを振り回して殴りかかってきたから避けようと思ったけど、少しは彼女の気が済むようにと思って大人しく棒立ちになっていた。身体を襲うのはぶつかる衝撃だけであまり痛くない。
「来ないで!どっか行きなさいよ!」
言われなくても、行くよ。そしてあたしは、もうきっとこの世界に帰ってこないだろうから。
「バイバイ、お母さん」
戻ると目の前にレオナードが居てびっくりした。標準が少しずれてしまったらしく、レオナードの部屋に戻ってきたらしい。もちろん突然現れたあたしにレオナードもびっくりしているようだ。やばい、怒られるかも。
「あ、あの・・・えっと・・・」
母親に会ったばかりで興奮が冷めないままレオナードの前に来てしまい、なんと言っていいかわからず言葉がうまく出てこない。困っていると先にレオナードが口を開いた。
「また勝手に何かしていたんだな・・・」
「うっ・・・」
さすがに鋭い。レオナードは眉尻を下げて困ったように微笑んだ。
「おかえり」
あ・・・“おかえり”って、生まれて初めて言われたかも。初めて言われたその言葉は、ムズ痒いような生暖かいような不思議な感覚だった。
泣きそうだったけど泣き顔を見られたくなくて、レオナードの腕の中に飛び込む。拒否されることなく回された腕が暖かくて、ますますあたしは泣くのに我慢しなきゃいけなくなった。
ごめんね、百。あたしこっちの世界で家族が出来たよ。ずっとずっと欲しかった自由は手に入らなかったし、思い描いたような暮らしはできないし、あんまりいいことはないみたい。
「嫌だったんだ、家族ができるのが」
レオナードは黙って聞いていた。あたしは独り言のように呟く。
「あたしはずっと家族が嫌いで、どうしようもなく嫌で、でも毎日帰らなきゃいけないあの場所がどうしようもなく苦痛だった。苦しくて何度家出しても、結局あの家に帰らなきゃいけなかった。そうしなきゃ生きていけないあの場所が、死ぬほど嫌いだったんだ」
もっともっと自由に生きたかった。苦痛を感じたら逃げられるその自由は、あたしたちが望んでやまないものだったのに。
「結婚なんてしたくなかったよ、レオナード」
逃げようとする度に捕えられる。それはあたしが“恐れていた家族”そのものの姿で。なんとなく居心地がよく忘れかけていたけれど、あたしはもう二度と同じことを繰り返したくないんだ。
「諦めろ」
「え・・・?」
あたしは顔を上げてレオナードを見た。
「諦めろ」
自由を、諦めろ。レオナードの言いたいことがわかって、あたしは唇を噛む。あったものをなかったものにはできない。もうできたものを無くすなんて、あたしにはできない。
あたしは――――レオナードのそばを離れられないんだ。
ヴィラが目の前に忽然と現れた時、彼女は泣きそうな表情をしていた。胸の中に飛び込んで来た小さな体を抱きしめたのは2度目。前よりも少し細くなっていて、栄養のある食事を料理人に作らせようと思案していた。
「嫌だったんだ、家族ができるのが」
ぽつりと、落とすように呟く。
「あたしはずっと家族が嫌いで、どうしようもなく嫌で、でも毎日帰らなきゃいけないあの場所がどうしようもなく苦痛だった。苦しくて何度家出しても、結局あの家に帰らなきゃいけなかった。そうしなきゃ生きていけないあの場所が、死ぬほど嫌いだったんだ」
たどたどしい言葉だったが、なんとなく理解できた。彼女は“囚われる”のが怖かったのだと。それが家族という形で縛られるのが目に見えていて、それから逃げ出そうと必死だったのだと。
「結婚なんてしたくなかったよ、レオナード」
なかったことにするのか?出会いも、過ごした時間も、全て。彼女を手放せば、きっと簡単に飛び立ってしまうだろう。
しかし、それは俺が許さない。できない。
「諦めろ」
「え・・・?」
ヴィラが顔を上げると、漆黒の瞳に吸い寄せられるような錯覚を覚える。
「諦めろ」
ポタリと一滴の涙を落して、ヴィラは再び胸の中へ顔を埋めた。
腕の中で俺に縋るように抱き返すヴィラ。嘲笑うかのようにヒラヒラと飛び回る蝶を、やっと手の中に収めたような支配感と征服感に包まれた。もう二度と放してやらない。箱の中に閉じ込めて、羽を折って、飛べなくしてしまえばいい。
―――ヴィラはもう、俺のそばを離れられないんだ。
慰めるように何度も頭を撫でる。髪の束を手に取って口づける。ポロリともう一滴の涙を最後にヴィラは泣き止んで顔を上げた。指の腹で涙の跡を拭くと、くすぐったそうに目を閉じる。
そのまま後頭部に手を回して唇に噛みついた。ヴィラはギュッと身体を強張らせて、背に回した手に力を入れる。慰めのための行為のはずが、頭の中がかっと熱くなってもっと先に行けと促す。熱くなる口内と抑えの効かない自分を嗤い、そのままベットに押し倒した。