第三話 妖魔というもの、手放した日常
山の山頂にある社の近くに、息も整っていない一匹の狐が伏していた。
僕はその狐に駆け寄り、何かを言っている。困ったように顔を上げて、その狐を抱えて家のほうに走り出す。
父さんに見せると、きっと母さんが何とかしてくれるだろうと言った。僕はその言葉がどんな時でも適用されるだろうと思う。僕にとって、母さんはどんな神様よりも凄いのだから。
そう、いつだって。
「……と、綾斗、大丈夫なのか」
「父……さん?」
意識が覚醒して、最初に目に入ってきたのは父さんの顔だった。
白い天井にふかふかのベッド。少なくとも僕の家にベッドはない。ならここはどこなんだと辺りを見回す。窓から見える空は真っ暗で、見える限りでは病院のように思う。
「数ヵ所の打撲に意識不明と聞いて飛んで来たんだがな。とにかく無事でよかった」
……打撲?
一瞬で意識の外に置かれていた記憶が戻ってくる。
「白川さんは無事だったの?」
「白川さん?……ああ、それならピンピンしてたぞ。さっきまでここにいたんだが……流石に御両親も心配するだろうからって帰っていったよ」
「良かった……」
聞きたいことは山ほどある。白川さんが持っていた刀や、透明な化け物についてなど、他にも様々。正直、それらのことを聞いてもいいのかは分からない。聞かずに、今日のことを忘れて明日からまた普段の日常に戻るのも有りなのかもしれない。
ただ、それではだめだとも思う。何も変わらない。自分のことについても何か知ることが出来るかもしれないのに。
だから、僕はこうしようと思う。
「あの、信じてもらえるかは分からないんだけど、この打撲を負ったときに見えない何かに殴られた気がしたんだけど……」
――何か知っているかと、そう聞く前に父さんの纏う気配が先ほどのものとは変わり、僕にとってはそれがどの言葉よりもはっきりとした肯定になった。
「知ってるなら、教えてほしい。このまま何も分からないのは、嫌なんだ」
「……そうか。本気なんだな」
質問のニュアンスを纏っていないその言葉は自分へ何かを言い聞かせているように見えた。
黙っていたのも理由があったのだろう。少なくとも今僕にはそれを指摘する権利はない。
「今から言うことは全て真実だ。信じるか信じないかは別にして、質問はできればしないでくれ。
古来から……感情というものは大きな力を持っている。正の感情は人々を豊かにし、負の感情は人々を不幸にする。
そして、世界を水のように漂い、流れ、混ざり合うその力は、ある時凝り固まることがある。そのようにして負の感情、力が、集まって生まれるものが妖魔だ。
ただ、それらは只の人に見ることはかなわない。見ることが出来るのは神の気を宿す者のみだ。お前は神など信じれないというだろうが。神は本当にいる。こことは違う別の場所に。
これ以上は、今は話せない」
正直、問い詰めたいことばかりだ。今聞いた話もまるで神話の怪物や古来から伝わる妖怪が存在するとでも言いたげではないか。……いや、実際にその通りなのだろう。ただ、認めたくない。でも、認めなくちゃならない。
気持ちは複雑だ。いろいろある。神が本当にいる?ならば何故救いを、助けを全くくれなかったのか。覚えているのは神に裏切られてという気持ちだけだ。だから、思い出せた曙には必ず、神を殴る。それだけでいい。今は、それだけで。
「父さんはもう帰るけど、明日には退院できるそうだから楽しみにしていてくれ。これから、綾斗が拾ってきた子狐も引き取らないといけないしな」
そう言うと父さんは行ってしまった。
「明日か……」
気持ちを整理するのにはあまりにも短すぎる時間だ。でも、落ち着くには十分かもしれない。
今日はまた明日、と言ってしまったがそれも難しいかもしれない。
それにしても妖魔が見えるのは神の気を宿す者のみ、か。
それなら今窓の外に見える、中心に石が見える単眼の風船のようなものは何なのだろうか。たぶん答えは既に出ている。
今の僕にそれを確かめるだけの気力がなかったというだけだ。
まだ色々なものを散らかしたまま、もう一度眠りについた。