第71話「小さな一歩」
次の活動日、9月15日もパート練習、チーム奏練習、合奏が行われた。
その日の部活が終わった後、奏太が1stパートの席を片付けていると美沙が声をかけてきた。
「大橋くん!」
「あ、紺野さん!」
「あれ?ミサ!奏太くんに用事?」
近くにいた奈緒が二人に気づくと、美沙はニッコリと笑って答えた。
「うん。チーム奏練習のとき奏太くんが放課後一緒に練習したいって言ってたから。」
それを聞いて奈緒はニヤニヤしながら奏太の方を見た。
「ふーん」
奏太は慌てて答えた。
「俺がうまく合わせることが出来ないところがあったから紺野さんに合わせ方を教わるだけだよ!紺野さんは合奏経験長いと思って!」
「みんなと合わせる前にまず二人で合わせるの大事だしね〜」
美沙も微笑んで言った。
こうして奏太と美沙は奈緒と別れた後、部室の一角を練習場所とし、2人で曲の中の対象の部分を合わせ始めた。
「あーまた遅れた!!」
何回か合わせてみてもどうしても細かい音が遅れてしまい、奏太は頭を抱えた。
「あはは。付点で裏拍から十六分入れるから難しいよね。」
ふたりは「マンドリンの群れ」の冒頭から演奏し、1stが本格的に演奏しだす場面で奏太がリズムを掴むことが出来ず、練習を繰り返していた。奏太が悩んでいたところは付点四分音符の後に十六分音符二つが付いている形で、拍の裏から十六分音符を入れること、さらにそれを他のパートに合わせることが出来ずに悩んでいた。このリズムはこの後も何度も出てくる大切なモチーフで、最初にそれを提示する大事な場面であった。
奏太が悩んでいる様子を見て、美沙は少し考えてから話を持ちかけた。
「ねえ。前にはるかちゃんにも言ったことなんだけど、もっと私の音を聴いてみて!」
「聴く?」
「うん。私のパート十六分音符でトリルみたいな音を出すんだけどそれを聴くの。」
美沙はそう言うと、実際に自分のパートを弾いてみた。
美沙はタカタカタカタカタカ…という音を鳴らして、奏太の顔を見ると、笑って言った。
「この音を聞いてそれに重ねるように弾くの。付点四分音符の音も十六分音符6個って思って弾きながら私の音を聴くんだよ。」
美沙の提案を聞いて奏太は静かにうなづくと、実際に弾いてみた。
「くそ、聴いて弾くとどうしても遅れちゃう。」
実際に聴きながら演奏すると遅れるということを聞いて美沙は改めてじっくり考えてから、何かを思いついた。
「わかった!トレモロだ!」
美沙はそう言って奏太の演奏を見た。
「え?トレモロ?」
「うん!奏太くんは付点四分を今トレモロで弾いてると思うんだけど、速さを考えずに弾いてるでしょ?」
「うん。」
「だからそれを十六分の速さで弾けばいいんだよ!」
美沙の提案を聞いて奏太はハッとした。
「なるほど…!」
そう、美沙の言う通り、奏太のトレモロは美沙の弾く十六分音符のトリルの音に噛み合わず、そのズレの分、十六分の音の入りにズレが発生していたのだ。
「俺、トレモロって細かく弾けば弾くほどいいものなんだと思ってた。でも、ちがう。この速さなら十六分音符の速さで弾いても十分ロングトーンに聴こえる。十六分音符の速さでトレモロすれば紺野さんの音に合わせやすい!早速やってみよう!俺、もう一回合わせたい!」
「うん。やろう!」
奏太達はそう言ってうなづくと、再び練習を始めた。
美沙と共に「マンドリンの群れ」の練習をしていた奏太。美沙のアイデアを元にトレモロの回数を意識して演奏すると、美沙の音にしっかりと合わせて演奏することができた。演奏を終えて奏太は目を輝かせて美沙の方を見た。
「紺野さん!今の!」
美沙もにっこり笑って答えた。
「うん!よかったよ!息ぴったりだね私たち!」
「う、うん!も、もう一回やろう!」
『息ぴったり』、そんな美沙の何気ない一言に奏太は思わずドキッとしたが、自分の気持ちを悟らせまいと誤魔化した。
何度か練習してみても先程までのズレが嘘のようにストレスなく合わせることができた。練習を終えて奏太は美沙の方をみて言った。
「紺野さん、ありがとう。紺野さんのおかげで俺すごく弾きやすくなったよ。」
それを聞いて美沙は笑顔で答えた。
「どういたしまして!大橋くんのお役に立てて私もよかったよ!」
その後も奏太は続けて美沙を褒めた。
「紺野さんって、本当にいい人だよね。」
「えっ?なに突然。」
奏太の急な一言に美沙は顔を赤らめて少し慌てた。
「いや、俺真面目に紺野さんってすげえなって思う。紺野さんってすごい面倒見いいし、いつも誰かのことを考えることができるじゃん。」
「そ、そんなことないよ。だって当たり前のことでしょ?」
美沙は照れ隠しでチェロの弦を緩めながら答えた。
「そうだよ。当たり前のこと。でも、当たり前のことをちゃんとできるってすごいことだよ。前に花火大会で会った時も自分の足を怪我してたのに はぐれた高田のこと心配してたし、あいつがイトナリのこと好きだってことも親身に考えてた、」
「“高木”ね。」
美沙は話を静かに聞きながらも奏太の覚え間違いはしっかりと指摘した。奏太はその後も話を続けた。
「...三送会の時も平山さんの練習のことを先輩よりも真剣に考えていたし、今日も自分の練習があるのに俺の練習に付き合ってくれた。」
「大橋くん...」
話を聞きながら美沙はしみじみとつぶやいた。
「本当にすごいと思うよ。俺改めて紺野さんのこと...」
ここまで言って奏太は自分の言いかけたことに気づいて答えを飲み込んだ。
「本当に尊敬した。」
奏太は自分の言いかけようとしたことに気を取られながらも慌てて別の答えに続けた。その言い方は客観的に見ればとても違和感のあるものだったが、美沙はそのことについては特に気にせず、奏太の賞賛を素直に受け止め、お礼を言った。
「ありがとう。大橋くん。」
その時の美沙の表情はとても美しく、奏太も思わず笑顔になった。
「これからもよろしく!ミサさん。」
「えっ」
今まで「紺野さん」と呼んでいた奏太から下の名前で呼ばれ、美沙は少し驚いたが、少し経ってから返事をした。
「こちらこそ、ソウタくん。」
こうして、この日の練習が終わった。
奏太が美沙との練習を終えて楽器を片付けていると、横から奈緒がやってきた。
「ソーウタくん!どうだった?ミサとの練習は?」
奈緒のニヤニヤとした表情に少し圧倒されながらも奏太は少し照れながら答えた。
「ああ!めっちゃ楽しかったし、ためになった!」
満足げな奏太を見て糸成も尋ねた。
「なんか嬉しそうだなあ!進展あったのか?」
「えっ、糸成まで...なんで俺たちが二人で練習してたの知ってんだよ!」
「あはは!ごめん!私が話しちゃった!」
糸成が今回のことを知っていることを不思議に思った奏太は奈緒に理由を言われて少し慌てた。
「ま、まじかよ!恥ずかしいな!」
「ま、いいじゃんいいじゃん!俺は味方なんだから。」
糸成たちはニヤニヤしながらもそういって奏太をなだめると、再び尋ねた。
「で、進展は!?」
「そ、そりゃあるけど!!!」
「!教えて!」
進展を聞かれて、奏太は口角の緩みを抑えながら練習であった事を話した。
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「えっ、、、名前!?...それだけ!?」
「なんだよ教えろっていうから話したのに!」
奏太から話を聞いて糸成はガッカリした。奏太は顔を赤くして少し拗ねた。
「まあまあ、それでも、一歩前進じゃん。それにミサから下の名前で呼んでもらえるなんてレアだよ!よかったね!」
奈緒はそう言って奏太のことを褒めた。奏太も奈緒に褒められて少し自信がついたのか、顔を上げていった。
「そうだよなあ!俺勇気出して呼んだんだもん!」
二人の反論を聞いて、糸成はホッと微笑むと、納得して返した。
「まあ、そうだな。今までただ成り行きに任せてたことを考えれば大きな一歩だよ。お疲れさんソウタ。」
「そうねえ、ソウタくん演奏のこととなるとあんなに手段選ばずに中川先輩引き戻したり都川先生に聞いたりするのに恋愛のこととなると受け身になるところあったからね。よく頑張ったよ!」
二人からそう言われ、奏太も自分の行動に納得して言った。
「ああ!これからもミサさんともっと仲良くなれるように頑張るよ俺!」
そして最後に一言付け加えた。
「だからお前らも頑張れよ。」
「ん?俺ら?なにを?」
「んなっ、そんなことアンタに言われんでもわかってますわ!!」
奏太の言ったことの意味がよくわからなかった糸成は首を傾げ、奈緒は糸成に察せられないように気をつけつつ慌てた。
「ハハハ!冗談だよ!」
二人の反応の違いを見て奏太は思わず笑うのだった。
用語解説です。
トリル:音符の上に「tr」とついている音の場合、その音とそれより高い音を高速で交互に演奏すること。テレレレレレというような音になる。
また、トレモロの話の解説ですが、そもそもトレモロとは一つの音を何度もすばやく演奏することでロングトーンに聴かせる技術です。要は点をたくさん隙間なく並べると線に近くなるということです。
奏太は十六分音符をトレモロで演奏する時、ロングトーンはなるべくガタガタしてない方がいいという価値観に縛られていたあまり、トレモロに一つでも多くの音を入れようとしていました。しかし、それでは美沙の十六分音符に合わせることができなかった、そこで、十六音符の回数でトレモロをすることで、美沙の音にピッタリ重ねようと図った、ということです。




