26 サイン・コカイン・タンジェント
降り立った新たな世界。
ヴァルマルスは深い森の中にいた。
『26』・・・彼の手の甲にはそう刻まれている。
肉体の年齢は十四歳程。どうやら家族も友もない様だ。
だが、それはむしろ都合がよかった。
この時のヴァルマルスは疲れ切っていた。己の身に付き纏う転生、目まぐるしく移り変わる世界にだ。
だからこうして何の繋がりもない者として転生出来たのは好都合だ。今回はただただ何も感じず考えず、ゆったりと終わりに向かいたい・・・そんな気分だった。
そっとヴァルマルスは近くの木に体を横たえた。
一週間もこうしていれば餓死するだろうか。精神を休めるには丁度良い期間であろう。
目を瞑り大きく息を吐く。
すると、彼の耳にガサガサという物音が聞こえてきた。
これは人の歩く音だろう。ヴァルマルスはウンザリしたようにそちらを見た。
「おや、こんな所に人がおるとはな・・・。」
現れたのは髪の毛の代わりに真っ白いヒゲを携えた壮年の男だった。
白衣に包んだその外見は、いかにも科学者という風貌だった。
「お前さん、もしや迷ってしまったのかな?どれ、この近辺の地図を用意してやる・・・今日はウチに来なさい。」
「・・・。」
「おや、どうした・・・のう?のう?」
人懐っこく自身を見回す男。彼には妙な者に関わらないという発想は無いようだ。
このまま無視を決め込んで横でずっと喚かれ続けるのも困るので、ヴァルマルスは彼の好意に応じる事にした。
男の名はドクター・バンジィと言った。ヴァルマルスが聞いてもいないのにベラベラと自己紹介をした。
連れられたのは、森の中の寂れた研究所。
書類やら何やらで覆われた机にスペースを作ると、バンジィは食事を並べた。
「さて、ヴァルマルスといったか・・・食べながらでいい、そろそろ聞かせて貰おうか。お前さんがどうしてこんな森深くに居たのかをな。」
「そうだな・・・。何度死んでも別の世界で生まれ変わると言ったら、お前は信じるか?」
本来ヴァルマルスは他人に自身の境遇を話す事は殆ど無い。
その方が円滑に異世界の住民とやっていけるし、そして彼らと必要以上に繋がりを持ちたくないからだ。
だが今回ヴァルマルスはバンジィに嘘偽り無く全てを語った。
どうせこの世界には長居するつもりは無く、あれこれ理由を考える事すら面倒であった。
虚言癖持ちと追い出される事も覚悟・・・どちらかと言えばそれを期待していたヴァルマルスだったが、バンジィは逆に狂ったように目を輝かせた。
「な、なんと・・・何度死んでも死なぬ体で、加えてお前さんは死ぬ事に何の躊躇いも無いと?」
「ああ・・・むしろ完全な死を望んでいる。」
すると、バンジィはいきなり勢い良く立ち上がった。食器が揺れる金属音が響く。
「そうかそうか、それはなんという僥倖か!見付けた・・・!儂がずっと探していた粋の良い実験台・・・それは正しくお前さんじゃ!!」
バンジィは語った。
自分が、様々な薬品を研究し発明する科学者であると。
そして数々の素晴らしい薬を生み出す事には成功したが、その効果を試す実験台がおらず完成には至っていないという。
当然だ、未知の薬品を試せば期待通りの結果を得られるかは分からない。なんなら死の危険さえあるだろう。
そんな実験台に志願する者など誰もいない。
結果彼は人々に無理矢理薬を試し・・・それで社会を追放されてしまった。こんな人里離れた所に住んでるのはその為だ。
「だが死を恐れぬお前さんなら受けてくれるのではないか?頼む!科学の発展の為にその命を儂にくれんか!?勿論タダでとは言わん、協力してくれるならお前さんにとって必ず役に立つ薬をやろう。」
ぐっとヴァルマルスの手を握ってバンジィは懇願した。
(結局こうなるのか・・・。)
溜息を付きながらもヴァルマルスは渋々了承した。かつて散々重症人を看病した経験もある、薬の重要性は十分承知していた。
・・・その時だ、突然彼の頭を焼けるような熱さが襲った。
驚き頭を押さえると・・・そこには森のような髪の毛があった。
「ホホホ、実は既に一個食事に混ぜておったんじゃ。・・・毛生え薬、まずは成功じゃな。」
それから・・・バンジィは様々な薬をヴァルマルスに試した。
勿論その全てが上手くいった訳では無い。
空腹を満たす薬では満腹で三日動けなくなったし、背を伸ばす薬では建物の屋根を突き破ったりもした。
だが決して致命的な事態に陥る事はなく、改良を重ね薬はどんどん完成していった。
余り気分の良い事では無いが・・・己の身に起こる様々な変化を味わうのは、ヴァルマルスもそれなりに楽しかった。
そして・・・。
「ふむ、肉体を磁石と化す薬も完成じゃな。これで残す薬は一つ・・・どうやら儂は相当な天才だったようじゃな。」
ヴァルマルスの腕に張り付いたスプーンを剥がしながら、バンジィは感慨深そうに言った。
ヴァルマルスはそれを見て、微笑を浮かべる。
「ああ・・・多分お前が思っている以上のだろうな。」
「ははっ、間違いないわ!!」
歯の抜けた笑みを見せるバンジィ。
・・・だが突然表情を暗くすると、彼はポケットから一粒の錠剤を取り出した。
「・・・故に、儂はこの最後の薬をお前に試したくは無い。」
最初に言った『ヴァルマルスの役に立つ薬』それがこの薬なのだろう。
ヴァルマルスは・・・察した様に言った。
「それは・・・誰かを死に至らす為の薬か。」
「ああ、そうじゃ。これは安楽死の薬だ。痛みも苦しみもなく眠る様に死ぬ事ができる。こいつを使えばお前さんも楽に死ぬ事ができるだろう。最も、死後の先までは保証できんが・・・。」
「十分だ。最後の実験には丁度良いだろう。・・・薬で死ぬというのもまだ試してはいなかったしな。」
服用に了承し手を差し出すヴァルマルス。
しかしバンジィはなかなかそれを渡そうとはしなかった。
「何故じゃ、何故進んで破滅する必要などある・・・。完成した薬を持っていけば、きっと政府から一生遊んで暮らせる程の報奨金を得られる筈だ。たとえ永遠に終わらぬ人生だとしても、それを幸せに過ごしてはいけないなんて事はないじゃろう。お前さんは儂のためにそれだけの事を・・・!」
しかしここでヴァルマルスは首を振ってバンジィの言葉を遮った。
「俺は幸せなんて物は実感できないし、望んでもいない。だがこんな俺の命でも、それを費やす事で幸せを得られる者がいるのならくれてやる、ただそれだけの事だ。俺はそう決めたんだ。それが俺にとっても一番いい。だからこうしてお前の役に立てたのなら・・・この人生はきっと幸せなものだったんだろう。」
「・・・。」
『でも・・・それを言うお前さんの今の顔は、とても幸せそうには見えない・・・!』
喉元まででかかったその言葉を抑えると、バンジィは黙って薬を手渡した。
ヴァルマルスはそれに小さく頭を下げると・・・その場を去っていった。彼にはまるで迷う様子は無かった。
後始末に困らない様に、ヴァルマルスは研究所を出て・・・森の奥深くでその薬を飲んだ。
実験は、成功した。