0 ヴァルマルス
それは、まだヴァルマルスの手の甲に何も刻まれていなかった頃の・・・。
つまり・・・一番最初の人生の話だ。
剣も魔法も無い世界で。
ヴァルマルスは絶望に包まれた貧民街に生まれた。
物心付く頃には既に母は無く、死と狂気だけが彼を取り囲む。
そんな中で・・・彼の父親だけは最大限の愛情を注いだ。
「大丈夫、何も心配はいらないよ。君は私が幸せにしてあげるからね。」
それが父親の口癖だった。
彼はヴァルマルスにボロボロの本を与えた。
今はこんな物しか手に入らないが、いつかは学校に行かせてやると言いながら。
当然それには多大なお金がいる。
しかしツテも学もないここの住民がそれを手にするのは容易ではない。
となればとても褒められないような仕事をするしかない。
住民の生死さえ記録に残らぬこの街は、犯罪の温床だ。是非を問わなければ・・・金を得る方法などいくらでもある。
家に帰る父親は大きな傷を負っている事もあった。・・・そして、いつも沈んだ瞳をしていた。
それでもヴァルマルスが心配そうな瞳を向けると、僅かに微笑んで彼は件の言葉を口にするのだ。
『心配はいらない』と。
ある日の事だ。
父親はいつにも増して光を失った表情でヴァルマルスの元へ帰ってきた。
この日の仕事は『殺し』だった。犯罪組織から脱走し、この街で平穏に暮らしている構成員を始末しろという・・・実にオーソドックスな仕事だ。
だがターゲットには子供がいた。この街で生まれた・・・まだヴァルマルスと歳も変わらないような、何の罪も無い子供だ。
・・・しかし指示は親族ごとターゲットを完全に消せというものだった。何なら出来るだけ苦しめて殺せと、そんな残酷な仕事だった。
躊躇う余裕などない。父親は容赦無くその命を奪った。
そうして家へと戻った彼は・・・疲れ果てていた。
「この世界は残酷だね。人は生まれた瞬間に幸せになれるかどうか決まってしまう。・・・そしてこの街で生まれ育つ者には、『それ』は訪れない。そう運命づけられているんだ。」
「じゃあ何故父さんは僕を幸せにしようとするの?」
あくまで不思議そうに問い掛けるヴァルマルスに父親は一瞬目を丸くしたが、すぐに小さく微笑んだ。
「・・・。いや、随分真を突く質問をするね。・・・それは多分、父さんがまだ心のどこかで幸せという物を諦めていないからかもしれないな。自分にそれは絶対に訪れないと理解している筈なのに、君は幸せになれると信じている。ああ、あるいはそうする事で自分も幸せを得ようとしているのか・・・。」
難しい顔でブツブツと呟く父親に、ヴァルマルスはぽかんと口を開けた。
その様子に気付くと、彼はそっとヴァルマルスの頭を撫でた。
「ふふ、君には少し難しかったね。大丈夫、いつも言ってる通りさ・・・何も心配はいらないよ。」
それからすぐ。
ヴァルマルスが12の誕生日を迎えた頃だ。
父親は家へと帰って来なかった。
心配して外を駆け回ったヴァルマルスはすぐに父を見付けた。
だが彼は全身を焼き焦がし、虫の息だった。
爆弾を運ぶ仕事の最中、誤ってそれが爆発したのだ。
ヴァルマルスは大急ぎで父を近くの無免許医の所へ連れ込んだ。
彼の学費に、と溜め込んでいた金を全てつぎ込んで、父親は何とか一命を取り留めた。
だが代わりに父親は四本の手足と、心を失った。
寝たきりでぼうっと一点を見つめ、身動き一つ取らない。
だが時折その虚ろな瞳を動かすと、呪文の様に唱えるのだ。
『ごめんな、ヴァル・・・』と。
ヴァルマルスは貰った本を焼いた。
別に元々学校や何かに焦がれていた訳では無い、何の未練も無かった。
お金がいる。一命を取り留めたとはいえ、父親を生きながらえさせるにはこの街では高価な包帯や消毒薬が必要となる。
加えて二人の生活費もいる。
そんな額をまだ幼いヴァルマルスが稼ぐ方法など、一つしかなかった。
父の仕事を引き継ぐのだ。
「大丈夫、何も心配はいらないよ。今度は僕が父さんを幸せにするから。」
ヴァルマルスは笑ってみせた。
初めのうちこそその仕事内容の狂気に嘔吐する事もあったが、子供の意識など柔軟なものだった。
世の中とはそういう物であると、すぐに慣れた。
余計な心情を持ち込まない分むしろ冷徹に・・・完璧に仕事をこなせる様になっていた。
死体を生み出す事など、食料を生み出すよりずっと容易い。
来る日も来る日もヴァルマルスは働き、父の介護を続けた。
何も答えぬ彼に・・・声をかけ続けるのだ。
すると時折父はヴァルマルスに視線を返してくれた。
数年の時が流れた。
いつもの様にヴァルマルスが包帯を替えていると、父親は口を開いた。
うわ言では無く、はっきりと。
ヴァルマルスの方を見て・・・。
「もういいんだ。もういい、父さんは幸せだったよ。・・・ごめんな、ヴァル。」
「・・・。」
突然の事にヴァルマルスは返答に困ってしまったが、父親はそれきり口を開く事はなかった。
その日から彼は衰弱していき、ヴァルマルスの看病虚しく息を引き取った。
それからヴァルマルスはどうしたら良いか分からなくなった。
父を生かし続ける事。それだけが彼の存在理由だったのだ。
だから一人になってしまえば、もう彼には何も無い。
目的も、願いも・・・。
ただただ与えられた仕事をこなし、機械の様に生き続けるだけだった。
その日の仕事は『殺し』だった。
この街に暮らすある三人家族を殺す事。
かつてヴァルマルスの父がやったのと同じような仕事だ。
・・・いとも簡単に、ヴァルマルスは男とその妻を殺した。
二人の子供である少年の目の前で。
「父ちゃん!!母ちゃん!!しっかりして、しっかりしてよ!!」
「・・・。」
後は彼を殺して、それで仕事は終わりだ。何の事は無い・・・身体的に成熟した大人を殺すよりずっと容易い事だ。
しかしヴァルマルスはなかなかそれをしようとしなかった。どういう訳か体が動かなかったのだ。
すると少年は、涙を零しながら震える手でナイフを握り締めた。
「よくも・・・よくも父ちゃんと母ちゃんを・・・!うわああああっ!!」
「・・・っ!」
奇声と共にこちらへ襲い来る少年を、ヴァルマルスは避けなかった。
避けようともしなかった。
ざくりと、ナイフは深く腹部に突き立てられた。
「うっ、あああ・・・うわあぁっ!!」
取り乱していた少年は自身の行動により更にパニックになり、その場から走り去って行った。
一人残されたヴァルマルスはゆっくりと崩れ落ちる。
殺しの経験などない、増してか弱い子供の力だ。ナイフはヴァルマルスを即死させるには至らない。
だがそれでもその一撃は彼に確実に致命傷を与え、ゆっくりと死へと誘った。
「・・・。」
ヴァルマルスには痛みも恐怖も特に無かった。
生きる事に未練など無い。
自分の人生が幸せだったのかそうでないかは分からない・・・だが少なくとも満足はしていた。
これで終わる、それで良いのだ。
安らかに、彼は息を引き取った。
・・・はずだった。