百二十六日目、白河夜船
白川夜船……ぐっすり眠り込んでしまい、その間なにが起こっても気がつかないこと。
京都を見物したと偽った人が白河(京都の地名)のことを尋ねられ、川の名前と思って、夜に船で通ったから知らないと答えたという話から。
よく寝込んでいて何も知らないことの例え。
「白川夜舟」とも書く。
……あって無くとも、特につっこみは無しの方向で。
夜。
竜介はどうやらそのまま昏倒して寝てしまっているようだった。
「秋原。せめて竜介を見張っていてくれないか。このままではあいつは卒業が出来ないかもしれない」
そんなことを大まじめに言われたら従わざるをえないだろう。
そんなわけで今、竜介の部屋にいるわけだ。
ちなみに相部屋の萩はどうやらどこかに出かけているらしく、姿がない。「ちゃんと戻ってくる」とはいっていたが、大丈夫だろうか。
さておき。
「竜介……」
私は基にやられた傷を、そっと包帯越しになでる。
わずかではあるが、すこしへこんでいる感じがある。こう、西洋剣の形である長い菱形のようにざっくりと。
きっと、痛むのだろう。それでも竜介は穏やかな顔で眠っている。
「竜介……」
もう一度、私は名前を言う。竜介は聞いているのか聞いていないのか、いやでも寝ているんだから聞いてはいないのだろうが、すこし寝返りをうった。
一度深呼吸をして私は話し始める。
「……竜介。私は、お前に桜田を助けに行って欲しくはない」
私は、訥々と話を続ける。
「お前とは考えてみれば色々あった。……その大半はお前と戦ったり、斬り合ったりしていたな。お前が知らない間に私は気付かぬうちに何人、何十人とこの手を血で汚した。……ははっ。おもえば私は、誰かに愛されるような人間にもなってはいけないのかもな。
人を殺して、いい道理など無い。人は活かすものだ。生きて生きて、天寿を全うして、それで死ねて……それが人の幸せだ。間違っても、同族で殺し合ってはいけないだろう。
それなのに私は、何人も人を殺した。命を奪った。たとえそれに建前があるとしても、殺していい道理など無い。……それなのに」
私はまた、傷をなでた。
「……お前は。私と依然と変わらぬ様子で接してくれた。これほどうれしい事はない。お前は誰からも、好かれ、誰からも気に入れられる。
そんなお前だから、他人のことは放っておけないのだろう。得な部類の人間だよ、お前は。お前が桜田を助けに行くのに、訳を聞くのも、道理を聞くのも不問だな。だが、な。――――」
気付けば包帯には小さなシミが出来ていた。
それは一つ、二つとシミを作っていた。
「――――私は心配なんだ。お前が死んでしまうような気がして。お前は死んじゃいけない。死んではならないんだ。桜田を助けに行けばお前は死んでしまうような気がしてならない。
竜介。私は。お前が好きだ。大好きだ。
だから死んで欲しくない。お前が人生を早く終わらせて死ぬなんて、あっちゃいけないんだ。自分でもわがままな理由とは思う。でもな。竜介。行かないでくれ――――頼む」
私はそのまま布団に少し顔を埋めた。
そして。
「……お前が行かないように、見張っておいてやろう」
建前と分かっていながらも布団の中に私は入った。
もちろん、今の私の服装は学生服ではない。パジャマだ。少し厚手の生地の。
そして余談だが、私はパジャマを着るとき、下着は着けないタイプだ。
……今の余談はいらないような気がした。忘れろ。
まあ、そんなことはどうでもいい。
私は竜介の布団に改めて潜り込んで竜介と一緒に寝た。
※――――
翌朝。
桜ヶ丘市のオフィス街。
そんなところがあるのかと疑問視の声があがりそうだがこれがあるんだから仕方がない。
その中でもひときわ高いビル。
――――の二番目の高さのビルがあった。
前面ミラー張りの高いビルだ。それでも一番高いビルには避雷針一個分くらいの違いしかない。
その中。
「すいません、ここはヘイブドアグループ、でいいんですよね」
「はい」
機械的な受け答えをする受付嬢。
その目の前には学生服のボタンを全て外した学生が立っていた。
「会長に用が会ってきたのですが……いますでしょうか?」
「失礼ですが、アポイントメントは取っているでしょうか?」
「…………」
学生はにやりと笑い、「やっぱ俺にはこういうのはむかねぇなぁ……」と、先程までの丁寧な言葉とは打って変わった言葉を言う。
「アポだぁ? んなものはとっちゃいねぇなぁ……なにせ」
学生は顔を上げる。そこにはいつものように歯を見せながら笑う、
「――取られたもんを取り返しに来たんだからなぁ!!」
桜ヶ丘高校生徒会会長、夏木竜介の姿があった。